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研究の醍醐味って何ですか?



それは、「世界中で自分しか知らないものを追い求めるなんて、不安じゃないですか?」という質問だ。一体、私たちの身体のどこからそんな「勇気」が湧いてくるのだろうか?質問ができないまま時が経ち、最近はてなブックマークで卒論を書き終えた学生に呼びかけたエントリーが話題になっているのを発見した。

価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない - 発声練習

「価値の判断基準が外にある人間は、自分の内部にあるものが外に問うだけのクオリティに達しているかを常に悩んでしまい表現を外に出せない」と断定的に語ったこのエントリーは、記事のアップから三日目にして既に1000件を超えるブックマークがついている。

このエントリーには多くの人が賛意のコメントを寄せているが、卒論経験者と思われる「匿名ダイアリー」への書き込みの中には、疑問あるいは「大学の教官たちへの要求」の声を寄せているものもある。

上に挙げた2つのエントリーは、研究テーマや卒論そのものの存在意義が、学生には説明不足に映ることを指摘しており、前者のエントリーは、それが教官とのコミュニケーションがうまくいかず、自分の考えに自信が持てなかった理由であるとしている。20代前半の多くの学生にとって、大学の教官は遥か高みに位置する存在である。自分の研究の位置づけすら飲み込めていない状況で、「こんな質問をしたら、馬鹿にされないだろうか」という不安を抱くのは当然の話ではないだろうか。

また、卒論に良い思い出を抱いていない社会人はしばしば見かけるが、必ずしも彼らが独創性に欠けているとは限らない。一体、学部生の卒論指導に、教官たちがどれほど力を入れているものなのか。当該分野の醍醐味や面白さを学生に伝える気がどこまであるのか。それが卒論指導という枠の中で可能なのかも含めて、筆者としてはぜひ聞いてみたいところである。

しかし、こうした意見は、大学が教育機関としての色彩を強めた世代の、少々ひ弱な言葉に過ぎないのかもしれない。そして、こうした研究に対する受け身の姿勢への苛立ちが伝わってくるのが、このエントリー。

いまどきの学部学生をクソだと思う一つの理由 - あらきけいすけの雑記帳

基本的には、一番上の記事と同様の主張だが、最後の問いかけが面白い。


だから「考える」というときに「模範解答」を条件反射的に連想して身構える態度は見ていてゾッとする。
そこには考えるプロセスと知的な冒険、あるいは失敗への忌避がある。
誰だよ、彼らにこんな態度を仕込んだやつは。

このエントリーに対しては、当事者である学生の立場から、こんな返答が寄せられている。

規定された個性、その結果 - こてゆびミルクティー


「やりたいことをやれ」と言われても、「なりたい自分」がわからない為に、またそのロールモデルも示されない。
なりたい大人がいない。芸人や女優はバカばっかり。

筆者は「ゆとり教育世代」の彼よりも少し年長だが、子供の頃から「個性は大事だ」とやたらと強調されてきたわりに、本気で個性的と思えるロールモデルが周囲にもマスメディアにも殆どいなくて、「彼らの言う個性って何だろう?」とよく考え込んでいた記憶がある(そして、時が経ち、昭和の奇天烈で破天荒な大人物たちが出演したVTRやドキュメンタリーを見られる環境になったとき、こういう化け物みたいな「個性」が跋扈していた時代が日本にあったのかと、不思議な驚きと羨ましさを感じたものである)。何だか妙に納得してしまったエントリーだった。

最後に冒頭のエントリーに話を戻そう。


どうして、自信がなかったのかといえば、たぶん、間違うことに対して恐怖をいだいているからだと思うよ。何で間違うことに対して恐怖を抱いているのかというと、まだ君には精神的な背骨が育っていないからだと思う。君は、自分の価値判断の基準を外部に委ねており、自分の内部にそれがない。

どうやらブログ作者のnext49氏によれば、まだ誰も知らない「適切かどうか/良いかどうか/正解かどうか分からない」未知の事柄について、外に向かって問いかける勇気は「背骨」から湧いてくるようだ。

と言っても、ここで言う「背骨」とは「精神的な背骨」であって、その正体は、当人の人生経験から生まれてくる確固たる価値基準のことであろう。確かに、自分で自分の行動に価値を与えられれば、これほど強いことはない。そして、そんな生き方に、私たちがふっと羨ましさを抱いてしまうのも事実ではないだろうか。実際のところ、表現者として生きていく人など少数だし、「精神的な背骨」を持つ生き方など誰にでも過ごしやすい人生である筈がないが、このエントリーへの1000件を超えるブックマークと熱い議論の源は、私たちの中にあるそんな淡い憧れにあるのではないだろうか。

文: 稲葉ほたて

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