対談者プロフィール
Dain
書評ブログ「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」(スゴ本)管理人。「その本が面白いかどうか、読んでみないと分かりません。しかし、気になる本をぜんぶ読んでいる時間もありません。だから、(私は)私が惹きつけられる人がすすめる本を読みます」
読書猿
「読書猿 Classic: between / beyond readers」管理人。正体不明。博覧強記の読書家。メルマガやブログなどで、ギリシャ哲学から集合論、現代文学からアマチュア科学者教則本、陽の当たらない古典から目も当てられない新刊までを紹介している。人を喰ったようなペンネームだが、「読書家、読書人を名乗る方々に遠く及ばない浅学の身」ゆえのネーミングとのこと。知性と謙虚さを兼ね備えた在野の賢人。著書に『アイデア大全』『問題解決大全』(共にフォレスト出版)。
谷古宇浩司
株式会社はてな 統括編集長/サービス・システム開発本部 開発第5グループ プロデューサー。本対談のオーガナイザー。
- 対談者プロフィール
- 自己紹介 ―― 賢明な素人として
- 素人は「知」を問題解決の側から必要とする
- 「知」についての「知」
- Dainと読書猿は何をどのように話し合うのか
- 教養とは? ―― 問いの抽象度を一段上げてみる
- ヨーロッパを作ったのは誰か?
- 何千年もの時を超えて
自己紹介 ―― 賢明な素人として
谷古宇(はてな) こんにちは。今日はよろしくお願いします。
読書猿さんは以前、マシュマロの質問(=読書猿さんは学者、研究者にはならないのですか?)に対して、このように答えていましたね。
「今の自分は『フィロロギスト』をやりたいと思っています。『フィロロギー』は『文献学』とか『博言学』と訳されますが、むしろキケロの原義に近いフィレイン(愛する)+ロゴス(言葉・学)をやる人、つまり、好事家ならぬ好学家です。
これを読んで「なるほど」と思いました。
大学などのアカデミックな研究機関に籍を置く研究者とは対比的な存在として、つまり、在野の好学家(フィロロギスト)という立ち位置がおふたり(Dainさん、読書猿さん)の共有点として挙げられるように思ったわけです。
Dain(スゴ本) こんにちは。「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」というブログの管理人 Dainと言います。今日はよろしくお願いします。
専門家はその言葉の通り、何らかの専門を追求する人ですが、僕は何かの専門家というわけではなく、ただ、ひたすら自分の興味・関心を追求しているだけの存在です。ブログの執筆も自分が知らないことを知りたいからやっている試みの1つであって、この活動を継続していく過程で、実にさまざまなことを学ぶことになりました。
僕の興味・関心は状況によって、あるいは、時と場合によって変化しますが、知的探究心自体に変わりはありません。この知的探究心を衝き動かすエネルギーの源泉は、ポール・ゴーギャンの作品のタイトルである「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という言葉に集約されると考えています。
By ポール・ゴーギャン - パブリック・ドメイン, Link
その上で、僕が最近、関心を寄せているのは「歴史」「文化」「科学」などの一般的な研究ジャンルを貫く横断的なテーマとしての「認知科学」「人工倫理」「知性の再定義」に関する議論です。「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」で紹介する本に科学啓蒙書が多いのは、そういうわけなのですが、読書猿さんの影響も非常に大きいです。以前、読書猿さんは「人文学と違い、科学は新刊が出る*1」とおっしゃっていました。文学や哲学の専門家と話すたびに、この言葉を思い出します。
ところで、今回嬉しいのは、読書猿さんとの対談をきちんと録音・記録する人がいてくれること。読書猿さんとはサシで何度かお話をしたことがありますが、いつも熱中し過ぎて、マシンガントークの応酬になり、メモが全然、追いつかない。それで何度、涙を飲んだことか(笑)
読書猿 いつも暴走して、すみません。今日も、よろしくお願いします(笑)
自己紹介ということで言うと、僕の立場はせいぜいが素人、よく言って独学者ぐらいのものかなと思います。じゃあ、ただの素人がなぜ「『知』とは何か?」みたいな偉そうな話ができるのか、なんですが、「かしこいはつくれる:来るべき人文知のためのプログラム」(読書猿)という小文で“鋳造”した賢明な素人(informed layman)という概念がありまして。
我々は皆、何らかの分野・テーマの玄人なわけですが、それ以外の分野・テーマに関しては素人であるしかない。そして、我々に降りかかる問題は、必ずしも我々の専門に合わせてくれるわけでもない。大抵の場合、我々は、素人として問題に直面するんです。
でも、素人であるにしても、そこそこマシな対処をすることだってありますよね。じゃあ、どうやったら落とし穴にはまらずマシな対処ができるか。それを考えるためには、個々の問題を解くよりも、また、問題解決の道具を考えるよりも、何段か思考の抽象度を上げる必要がある。だって、うまく問題解決できる人間になるにはどうすればいいか、っていう大きな話ですから。
そんな抽象論、カタギのやることっちゃないと言われるかもしれないけど(笑)、でもこれをやっておくと、良い武器を手にできるどころか、いろんな武器を自由に作れるスキルが身につくわけで、一見面倒そうでも、リターンはでかい。さらに言えば、抽象度を上げることで、これまでよりずっと遠くから、つまり、一見関係のなさそうな分野からも、「知」の援軍を呼べる。この抽象度を上げることが「知とは何か?」みたいなことにまでつながってるんです。
で、どうやったら素人なりにマシな対処ができるか? その条件を探るための概念ツールとして「賢明な素人」というものを考えたのです。ヒントはいろんなところからもらってます。たとえば、オーストリア生まれの社会学者 アルフレッド・シュッツの「学識ある市民*2や、科学者はどんな戒めをもって研究にあたっているかをモデル化したマートン・ノルム*3とか。こういうのが「知」の援軍ですね。自分のアタマだけで考えていたら、とても思いつかない。要するに、問題に挑む際にバカをやらないための条件なんですが、賢明な素人であるためには、まず最低でも次の3つが必要なんじゃないかと。
- 自分がそのテーマ・分野に関して無知であること(=素人であること)を知ること
- 必要な知識へのアクセス(所在、探し方、学習方法など)を知ること
- でき得るかぎり調べ、学んだとしてもなお、間違うことがあると知ること
とはいえ、これらは、知的で賢くあろうとする人なら必ず気を付けなければならない指針群なはずで、たとえば、学術研究者が順守すべき規範(norm:ノルム)と大きく変わってはいません。じゃあ、知を生み出す専門家と賢明な素人にどんな違いがあるのかというと、賢明な素人は「知」への動機づけの点で専門分野を持つ研究者とは違うところがあるんじゃないか、と。
専門家は、どの分野でどんなテーマを追求するか、内発的というか、基本的には自分で決められる。だから、自ら選んだ専門をずっと追求し続けられる。対して素人が専門を定められず、なぜ、ふらふらといろんな分野に顔を出すことになるかというと、その動機付けは、外発的というか、どんな必要が降りかかるかを自分では決められないからです。
思うに、素人が「知」に向かうのは、湧き起こる知的好奇心をなんとかしたいということも含めて、降りかかる必要に対処するため、言い換えれば、問題解決のためです。
素人は「知」を問題解決の側から必要とする
そこで思い出すのがプラトン*4とエピクロス*5の対照的な視覚理論です。プラトンたちは、ビームじゃないですけど、物を見る時、目から何か出てると考えていた(笑)。これが(視覚の)外送理論です。対して、内送理論の立場のエピクロスは、「違うよ、目に何か飛び込んでくるんだよ」と言う。
By ラファエロ・サンティ - Web Gallery of Art: Image Info about artwork, 左がプラトンとされている(右の人物はアリストテレス)。パブリック・ドメイン, Link
視覚についての、これら対照的な理論は、実は彼らの「知」や認識についての考え方とつながっています。洞窟の比喩みたいに、プラトンは「見ること」を「知ること」のメタファーとしてよく用いていましたしね。
外送理論にとっては、見ること(そして、知ること)は、認識主体から対象へと向かう能動的な働きです。「知」を持っていない認識主体は、それゆえに「知」を請い求めて、「知」へと手を伸ばす。何かが見えない(認識できない)のは、たとえば、障壁に遮られて、その向こうへ力が及ばないから。つまり、認識能力や「認識は可能か?」を問う認識論は、外送理論的な「知」の理論だと言えます。
この、いまだ手にしていない真理への挑戦を「知」への愛(=フィロソフィ)と考えるプラトンに対して、内送理論のエピクロスにとっては、見ることは、体に飛んで来た何かがぶつかることと大差ない。ここで問われているのは、「知」(認識)の可能性ではなく、不可避性です。つまり「知」(認識)は痛みのように避けようがないものだと考える。「知りたくなくても思い知らされることがある」というわけです。
専門家と素人の違いに話を戻すと、降りかかる「必要」に対処するための素人にとっての「知」は、プラトンよりもエピクロスにとっての「知」、飛んで来た何かが我々にぶつかることで生じる「知」の方ではないか、と。
「知」を問題解決の側から必要とする素人にあっては、「『知』は果たして可能か?」と考える余地はなく、「『知』は現に存在していること」を前提とせざるを得ません。つまり「知」は、誰かそれを専門とする人たちに任せておけばいいようなものじゃない。問題に直面すること、何とかしなきゃと思うこと、そして、そこで生まれる「なぜなのか」「どうすればよいか」という問いそのものも「知」に他ならないわけです。
つまり、素人が必要とする「問題解決としての『知』」にとって“守護聖人”たり得るのは、「知」への隔たりから真理へと向かおうとするプラトンではなく、「知」があることを、まるで痛みのように逃れられないものとして引き受けるエピクロスの方じゃないか、と。
「知」についての「知」
さらに、エピクロス的な知識観は「知」の自然化にも照応します。「知」というのものが、ヒトになってはじめて神さまが授けてくれたものじゃないとすれば、それは、生物の進化の中で位置づけられるものであるはずだからです。
生物学では、生物が自身のために環境を作り変える行動をニッチ構築と呼びます。有名なものではビーバーが木材を運び、川をせき止めて作るダムがそうです。もっとささやかなものでは、犬のマーキングがあります。
こうした知見に立つと、ヒトという生き物が行う知的営為は、物理的なニッチ構築に対して、認知的なニッチ構築として捉えることができます。我々は、我々の周囲の環境を物理的に改変(たとえば、ビーバーが作るダムのように)してきましたが、同時に世界を分割し、意味付けすることで、認知的にも改変してきたわけです。(なわばりを作るための)「犬のマーキング」や、ヒトにとっての「神話の創造」がそれにあたります。認知的ニッチとしての知識の広がりは広大で、我々が普通、期待する「正しい知識」はそのうちのごく一部でしかありません。しかし、必ずしも外部の実在と一致しなくても、認知的ニッチは役立つことがあります。
改めて神話を例にすると――、この世界の在り方と一致するかどうかという「度合い」では、神話は後発の「知」、たとえば、自然科学には劣るかもしれませんが、人々のルーツを、そして、世界に善と悪がある理由を、さらには人々の力と義務を説明し、納得させることで、(ヒトの生得認知的な制約を越えて)大きな集団を作り、維持することには大いに役立ちました。
この「合ってはいないけど、役に立つ」という意味での「知」は、真理を求めるプラトン的な「知」にはそぐわない。
そこで、これまた「知」の援軍を呼び出すんですが、アメリカの科学者 トーマス・クーン*6は『科学革命の構造』(翻訳=中山 茂 、みすず書房、1971)の最後で「〜への科学」という科学観に対して、「〜からの科学」を紹介しています。前者は、科学とは真理へと接近していくプロセスなんだ、というロマンを感じる話ですね。やがて「究極の理論」に収束するイメージ。これに対してクーンは「実際の科学史を見てみろ」と言うんです。統一科学の夢はとうの昔に潰えて、どこか(究極理論?)へ収束するのとは正反対のことが起きてるだろ、と。科学はむしろその多様性を拡大しているのであり、それぞれの難問・課題から脱しようとする拡散的な営みこそ、科学の実態じゃないか、と言うんです。
「真理への『知』」でなく「問題課題からの『知』」の立場に立つには、知識を「(世界の在り方と)一致するか=真理か」だけで評価するのでなく、その有用性(「役に立つか」)で評価することが必要です。この評価軸の“使い分け”は「知」の範囲を広げることにつながります。
広げるだけ広げたので、まとめなきゃいけないんですけど、そこで哲学(これはプラトン側の「『知』への愛」に譲ります)とは別の「『知』についての『知』」が必要になる。これがフィロロギー(ロゴスへの愛)なんじゃないか、と目論んでいるんです。
哲学というのは根源から、それこそ「『知』は果たして可能か?」みたいなところから始めることができる。それに対してフィロロギーは、ロゴス(学、言葉)はすでにあると前提する。そうしないと、たとえば、「このわけのわからない古代文字を解読しよう」という話にならない。これが文字であり、しかも読むべき価値がある何かが書かれていることを前提にしないとはじまらない。言い換えると、「知」が、つまり自分より頭がいい奴が、この世にすでに存在すると前提することで、フィロロギーは可能となるわけです。
ドイツの古典文献学者アウグスト・ベック*7はフィロロギー(文献学)を「認識されたものの認識」と述べました。これは17世紀のイタリアの哲学者ジャンバッティスタ・ヴィーコ*8の「人が作り出したものを認識の目標とすべきだ」という主張を継承するものです。人が作り出した認知的ニッチを対象とするフィロロギーは、学問「知」だけでなく、学問からみれば不確かで取るに足らないとされる「知」の営み、たとえば、アメリカの社会学者ハロルド・ガーフィンケルの造語である「エスノメソドロジー」(「人々の - 方法論 (ethno-methodology)」)*9が一部検討してきた、人々が日常使いしているローカルで間に合わせな「知」(我々の日常の判断や世界観は、そこに根拠を置いています)をも守備範囲とするでしょう。
知識の有り様を比較し、どうせ不可避なのであれば、よりマシな知識とよりよい関係を結べるよう、賢明な素人のための「知」として、フィロロギーは人と「知」の間を取りなします。そのために現代のフィロロギーは、
- 人間の仕様に関する一般的知識と自己の限界についてのローカルな「知」
- 知識の創出と流通、蓄積に関する「知」(「知」のライフサイクルとエコシステムに関する「知」)
- 知識を批判吟味する知識
などを備えるべきだと思います。
「真理への『知』」から解放されたついでに、もう一歩踏み込んで言うと、僕は、知性の一番のウリは間違える能力なのではないか、と思っています。組織立って、大規模に、体系的に間違える能力。誤った観念の大伽藍を作り上げてしまう力。たとえば、最初に書いた『アイデア大全』という本は、いわゆる発想法の本ですけど、その技法の多くは要するに間違えるための技術です。間違えることで、元のものの見方、考え方を離脱し、新しい場所へ出ることができる。
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間違える能力としての知性は、認知的ニッチ構築、つまり、環境を認知的に作り変えること自体が持っていることの本質です。認知的に作り変えたりしたら、当然、元のものとは違ってしまう。齟齬が生まれる。しかし、問題を作り、新しい考えを生み出す大前提として、それは避けられません。 問題を作り、新しい考えを生み出すためには、そして、現実から距離を置いた抽象的な観念や理論を作り上げたり、一般的なルール(法や制度を含みます)のように様々な場面に当てはめられるものを作るためには、「間違える」というのは不可欠の能力です。 その意味で、フロギストン*10のようなものを、単に「科学の失敗」として、科学をディスるのに使うことには同意できません。現行の科学に受け継がれなかった様々な認知的ニッチも、我々の知的世界を豊かにしてきたのであり、何らかのリスペクトを受けるに値するものだと思います。
しかし、間違ったものを取り上げ、見直し、再評価するのは、「真理への知」、とりわけ科学の受け持ちではないでしょう。人文知が「知」の静脈機構を担うのであれば、それら(=現行の科学に受け継がれなかった認知的ニッチ)もまた、フィロロギーの対象に含めるべきだと考えます。
以上が、真理へ向かう「知」だけでは足りないと、僕が思う理由です。
Dainと読書猿は何をどのように話し合うのか
谷古宇 一風変わった自己紹介が終わったところで、さて、問題は、おふたりが話し合うべきテーマとその粒度です。対談に先立って、大テーマである「問題解決としての『知』」をいくつかの小テーマに分解しましたが、そのコンパクトさこそ、賢明な素人が「知」を理解するための粒度と言えるのでしょうか。
読書猿 本対談のテーマになり得るのは、個別に分かれた学問とその守備範囲というより、別種の広がりと深さを持った領域に属する何かなのだろうと思いました。
たとえば、「知性とは」「知識とは」という問い、あるいは関心は、特定の学問分野で受け止めるには広すぎます。かと言って、複数の学問領域を横断すればカバーできるというものでもない。Dainさんと僕(読書猿)の2人で話すのなら、抽象的な理論の“空中戦”ではなく、「実はこういう本があってですね」というように、実弾(=スゴ本)の応酬をしながらの雑談風な議論になるのではと思います。そして、それはむしろ、僕にとっては望むところなわけです。
たとえば、「知識について」というお題で具体的な書名を上げるなら、狭い意味での知識(真理への知識)については『知識の哲学』(戸田山和久、産業図書、2002)、広い意味での知識(宗教や民俗知など、必ずしも“正しくないもの”を含む)については『セオリー・オブ・ナレッジ――世界が認めた「知の理論」』(Sue Bastian、ulian Kitching、Ric Sims、編集=後藤健夫他、翻訳=大山智子、ピアソン・ジャパン、2016)を挙げたいと思います。
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特に後者は、中等教育に認識論(知識についての理論)をコア・プログラムとして盛り込んだ上で標準化しようという、つまり、高等教育で、経済学や物理学を学ぶ前に「知識とは何か?」「知るための方法や知識の信頼度を高める/損ねる方法にはどんなものがあるか?」について先に学ぶべきだという、ある意味、野心的な試みです。
Dain なるほど。「知とは何か」というお題だと『TOK(知の理論)を解読する〜教科を超えた知識の探究』(Wendy Heydorn、Susan Jesudason、編集=Z会編集部、Z会、2016)もよいと思います。中学・高校生に向けた知識のカタログのような本で、実社会に知識がどのように活用されているかを、俯瞰的に眺めることができます。
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読書猿 はい。また、話し合うべきテーマのサイズや専門性についてなのですが、たとえば「資本主義とは」よりも「お金とは」ぐらいの緩さの方が話しやすいかもしれないと思いました。ただ、話しやすいと脱線もしやすいので、そのあたりにトレードオフのポイントがあるのかもしれません。いや、ちょっと待ってください。「資本主義とは」なら、対応するのはむしろ「働くとは」かも……。
Dain (話し合うべきテーマの設定を振り返りながら――)こんなの簡単、カンタン……と思っていましたが、おっそろしく難しい! 読書猿さんにご提案いただいた粒度で、とりあえず、9つくらいのテーマを設定してみましたが、これ、議論がどういう風に転がっていくのか見当もつかないですね。
教養とは? ―― 問いの抽象度を一段上げてみる
谷古宇 露払いのような意味で先程、読書猿さんに「『知』についての『知』」のお話をしていただきました。これは、「教養」というものの読書猿さんなりのユニークな考えなのだとも思いました。Dainさんはいかがですか?
Dain 先日こういう記事を書いたんです(「答えが見つからないときは、問題を変えてみよう。就活という問いに向き合うスゴ本6冊」(Career Ticket))。今(対談時は2019年3月)は就職活動まっ盛りですね。面接でうまくいかなくて落ち込んでいる人がいると思うんですけど、そういう人向けに、心を上向かせるアドバイスになるようなものを書いてくれとCareer Ticketの編集部に言われました。僕の就職活動って何十年も前のことなので、僕の経験自体は読者の方々には全然役に立たないけれども、まあ、「考え方」は今も昔も一緒だろうと。それで、この記事を書くのに読書猿さんの『問題解決大全』を使わせてもらいました。具体的には、リフレーミングという考え方を借りました。「就職活動って何?」という問いに対して、抽象度を一段上げて考えてみる、ということです。
普通、「就職活動って何ですか?」と聞かれたら、「企業が採用の是非を判断する、いわゆるテストの場だ」と多くの人が答えると思うんですよ。テストの場だと思うと、問題が出てきて、となる。問題っていうのは、たとえば、「弊社を選んだ理由は」とか「なぜ、この業界を志望しているんですか」とか。こういう問題に対して、就活生は一生懸命、答えを探そうとしますよね。問題に真正面に答えようって思うんだけど、そこを目指しちゃうと、多くの場合、ハウツー本などで答えを探しまわっちゃうことになる。
でも、そうじゃなくて、問いの抽象度を少し上げて、就職活動というのは「言葉のやり取り」であると考えてみる。エントリーシートの執筆であれ、面接であれ、すべて「言葉のやり取り」なわけで、じゃあ、重要なのは相手の心に届く「刺さる言葉」をいかに増やすか、そして、いかに効果的に相手へ届けるか、だろう。そんな「刺さる言葉」がたくさん書かれている本を紹介したりしています。
これを教養の話につなげると……。「なんとか」っていう知識があって、それを知っているだけでは、ただ、豆知識を溜め込んでいるだけなんですよ。そうじゃなくて、あるシチュエーションになった時に、「こういう知識が使えるよ」「あ、じゃあ、これ、こういうふうに使えるかもしれない」っていう実践を伴うことで、教養になる。
「ピレネーの地図」っていうエピソードがあるじゃないですか。アルプスの雪山の中で迷ってしまったハンガリー軍の軍曹以下3名の斥候がいて、このままだと遭難してしまうという時に、「上長殿、ここに地図があります!」と部下が地図を出してきた。「じゃあ、この地図を頼りに行こう!」と言って、頑張って、無事下山して生き延びましたという話(参考:Brief Thoughts on Maps)。実はその時の地図はアルプス山脈の地図じゃなくて、ピレネー山脈の地図だった。この話のように、道具や知識(情報としては間違っているかもしれないが)を状況に応じて自在に使えること、そのことがまさに「教養」なんじゃないか、と僕は思っているんです。
読書猿 今日は「実学は役に立たない」という話をしようかと思ってここに来ました。ここで言う実学というのは、「こういう時は、こうするといいんだぜ」「もし、この場合は(if)、こういうふうにしなさい(then)」というようなノウハウ継承の方法論のことなんですが、抽象度を上げる、次元を上げるという観点がないと、継承されるべきノウハウがほとんど役に立たない。自分は一体、何の問題を解いているのかっていうのが本当は分からないんです。
福沢諭吉という人がいましたね。実学という言葉をメジャーにしたのはあの人です。で、その反対の虚学は儒学や和学。儒学が本当に役に立たないか、というのはもちろんまったくの別問題ですけど、ただ、「この近代化の時代では役に立たないんだ」という切り分け方を福沢諭吉はバンっとやった。プロパガンダというか、宣伝のようにやってしまった。面白いのは、彼の元ネタは百科事典だったんですよ。『サイクロペディア』(イーフレイム・チェンバーズ、W. & R. Chambers出版社、1859)とかね、具体的に書名も分かってるんですけど。今だったら、Wikipediaを見ながら本を書いて、偉そうなこと言う感じです。
By en:User:PHG - en:Image:FukuzawaYukichi.jpg, 福沢諭吉。パブリック・ドメイン, Link
そんな彼でしたけど、確かに抜群の目利きではあった。適塾*11っていう大阪の医学校を出ているんですけど、そこではひたすらオランダ語で本を読んでいた。その後、もう、オランダ語の時代じゃないと、英語を自分で勉強した。経済のことも特別学んだわけではなかったけれど、百科事典で調べることはできる。だから、経済について「これからはこんなことをしなきゃいかんのだ」と言える。「市場をでかくしなきゃいけない」「議会がいるんだ」とか、いろんなアイデアを、情報源を出さないというずるいところはあるんですが、提案することができた。それらのアイデアというか知識を、彼は当時の日本の文脈にメタにつないでいた。百科事典程度のネタでもすごく役に立った。実際、福沢諭吉は明治初期の国の形や学問の形なんかの起点づくりで、アイデアマンというすごく重要な役割を果たしているんです。だから一定の文脈が見えていると、たとえ断片的な情報でもすごく役に立つ。逆に言えば、情報だけを持っていても役に立たない。百科事典(=福沢諭吉にとっての“実学”)だけ手元にあっても、どうしようもないんです。
本当は大学って、こういうメタな思考方法を教える場所だと思うんですけど、なかなかそうはなっていない。小さい頃から問題を与えられて、それを解くのが勉強だという考え方でずっと来ていると、問題をどう捉えるのかという、メタに問題に対応するやり方に馴染めない。そういう意味では、与えられた問題をたくさん解く経験をいくら積んでも、本当の意味で、問題を解決する力は身につかない。
Dain なるほど、そっか、そっか。答えまでたどり着くことは訓練しているんだけど、問題を自分で捉えたことはない、と。
読書猿 さっきの就活に話を戻すと……。僕はマシュマロで質問を受けているので、けっこう来るんですよ、就活の相談。それで、今まで答えた問いの共通点を振り返ると、就活で“負ける”人は、正解探しをしている人です。
Dain そう、そう、そう。
読書猿 就活を「与えられた問題を解く場」として捉え、「正解があるんだ」と考える。それで、一生懸命、自分の経験を話す。海外旅行に行ったとか、留学したとか、あるいはサークル活動を頑張ったとか。それが正解なんだと思っていろいろやるんですけど、実は、そんなこと、ほとんどの面接官は求めていない。彼らが知りたいのは、きみが“地雷”じゃないかどうかを知りたいだけなんです。すごい犯罪をするような人間じゃないかだけを知りたいんだ、と。世の中には平気で人を騙す人間がいて、そういう人を採用したくはないから、揺さぶりをかけてくる。だから、就活の面接というのは、きみが失敗するように構造化されている。その中で正解探しをしていると、それはもう途端に餌食になる。正解だと思ったのに、そこでバンっとハシゴを外されてしまう。本当は、そこでうろたえるきみが見たいんだと、こう回答したことがあります。
実はこれ、就活だけでなく、コミュニケーション全般で言えることです。コミュニケーションの場にいる人には2種類あって、正解を探す“弱者”と正解を押し付ける“強者”。後者は「これが正解なんだ」と前者に押し付ける。コミュニケーションというものをそういうふうに俯瞰して見ることができれば、ハマりもしないし、もう少し違う戦略も立てられるはず。相手がやっているのが「正解の押し付け」だということを見抜け、と。本当はそういう目が必要なんだ、と。
『問題解決大全』は「問題解決というのは正解探しじゃないんだぜ」と思って書きました。仮に正解探しだとしたら、問題解決なんて必要ない。だって、答えはすでにあるんだもん。正解探しと問題解決は別のものなんだ、というのが、この本のメインテーマです。
Dain 読書猿さんの本にはあちこちで隠喩、つまり、たとえ話がいっぱい出てきますね。さっきの僕の「抽象度を上げる」という話から、「福沢諭吉がね」というたとえ話が出てきた時に、なるほど、そこがつながっているんですね、と思いました。『アイデア大全』には「もし、ルビッチ*12ならどうする」っていうのがキーワードとしてあったはず。自分には、自分の中にある経験とか知識とかしかないです、といった時に、その中で眼の前の問題を抽象化することができないんだったら、ビリー・ワイルダー*13のように、もし、(師匠の)ルビッチだったらどうする? と考える。要するに、先生に相当するものを設定して、その先生だったらどうする? と考えることで、その問題を別の観点で、メタな形で見ることができる。
ヨーロッパを作ったのは誰か?
読書猿 で、この本なんですよ。『ヨーロッパ文学とラテン中世』(E・R・クルツィウス、翻訳=南大路振一他、みすず書房、1971)。
- 作者: E.R.クルツィウス,Ernst Robert Curtius,南大路振一,中村善也,岸本通夫
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Dain これね〜! いやもう、わざとらしく机に出してて。この本に出会えたのは、もう、感謝しかない。今日のために40ページくらいまで読んできました。
以前、読書猿さんが僕に、修辞学のことを勉強したいんだったら、ここに良いのがあるよ、とこの本を教えてくれていて。それで飛びついたんだけど、修辞学のページに行き着く前に、宝の山がいっぱいありました。
『オリエンタリズム』(エドワード・W. サイード、翻訳=今沢紀子、平凡社、1993)っていう本があるじゃないですか。「あっ」と思ったのは、西洋の人々が思うオリエントというのは、イメージなんだよ、という箇所です。その『オリエンタリズム』のローマ版、いや、古代、中世ヨーロッパ版が『ヨーロッパ文学とラテン中世』です。
- 作者: エドワード・W.サイード,Edward W. Said,今沢紀子
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僕らは、何らかの形で伝えられているものを通じて、古代とか中世と呼ばれている過去を見ます。手段は文章だったり、口伝だったり、いろいろなんですけど、伝達される内容は「(後世に)伝えるため」に加工されているわけです。過去を見る時は、いろいろなことが加工されているという自覚が必要だ、と。
読書猿 『ヨーロッパ文学とラテン中世』はね、ガチャッと言ってしまえば、ヨーロッパを作ったのは誰か、という本なんですよ。この本の中ではトポス*14って言ってますけど、決まり文句とかパターン化されたイメージ、そういう知的財産が脈々と受け継がれて、繰り返し再利用されて、それが古代から現代のヨーロッパにつながるような、言語と思考の世界を作っているんだよ、と。それも抽象的な枠組みの話じゃなくて、こういうトポスが誰それの作品のどこそこに出てくる、それをものすごい数、集めて、具体的に示してみせる。
たとえば、今でも「ロリババア」(ちょっと言葉はアレですけど……)とかありますが、文学の中には、いわゆる「老成した少年」、あるいは「少年の姿だけど、成熟している人」というイメージが頻出します。これは一世紀のなんとかという詩人がスタートだ、とか書いてある。それがどういう形で中世に受け継がれていって、誰がどういう風に使っていって、というのを、具体的な作品名と引用で編み上げてある。で、これが人を褒める決まり文句になった、と。たとえば、誰かを褒める時に、彼はすごく若いんだけど、老成しているっていう褒め方につながっていく。そういう1つのイメージを、決まり文句を軸に、日本人は知らないようないろんな中世の詩人や、ヨーロッパのいろんな言語で書かれたもの、ダンテの『神曲』(ダンテ・アリギエーリ、翻訳=平川祐弘、河出書房新社、2010)のこういうシーンで出てるとか、そういうのを拾い上げて、ザーっと縦につなげていく。そういうイメージ、トポスの継承の糸が何本も何本も出てくる。そういう風なものを、一本一本、古代から中世を通って、今につながっているような糸を、たくさん、たくさん、本当に具体的に拾い上げて、ガッと編み上げて……、こういうものが、それぞれの国や地域を超えた「ヨーロッパというまとまり」を作ってるんだ、ってことを説いた本なんです。
面白いのは、これは今回の対談のテーマでもあるけど、これこそが、ほんまもんのフィロロギー(文献学)なんです。近代ドイツに大成したフィロロギーの最先端が『ヨーロッパ文学とラテン中世』なんです。フィロロギーでいったい何ができるんだって聞かれたら、この本を見せればいい。ヨーロッパとは何かというのを、これだけの厚さと具体的事例で編み上げるということを、フィロロギーを駆使してやっている。
人文科学にとってのフィロロギーは、自然科学にとっての数学みたいなものだ、とクルツィウスは最初の方で書いています。フィロロギストというのは言葉を扱うプロです。言葉のプロであるフィロロギストが徹底的にやれば、言葉の堆積物を掘り下げていって、ヨーロッパ全体までも定義できるんだぜ、っていうことです。
今回、僕らは対談を通じて、本のやり取りをしようと言ってるんですけど、「なぜ、本なんだ?」という問いへの答えでもあるんですよね、この本は。
現在、僕たちは日本に居ながらにして、ホメーロス*15の『イーリアス』や『オデュッセイア』を読むことができるじゃないですか。全文、読める。千年以上前のギリシャ人の本を、まったくそのまま受け取れて、まあ、翻訳ですけど、読める。ホメーロスをダンテとつなげるっていうことも手元でできる。それは本があるからできるんだ。つまり、文学っていうのは、どの時代に書かれたものでも、この場所に「現在」として呼び出せるんだ。そうやって呼び出すことを読み手は延々とやってきた。そんな読み手の中には、ホメーロスを読んだウェルギリウス*16や、ウェルギリウスを読んだダンテも、そして、そうした言葉の堆積物を掘り起こす文献学者も、さらには、彼らの仕事を今読んでいる我々も含まれます。そういう営みが文学なんだ。ある書物は、それ単体で全体なんだということと、常に、今、古典を呼び出せるということは表裏一体なんです。僕らが今回、本を「実弾」として教養の話をしようとする場合には、エピグラフとして、『ヨーロッパ文学とラテン中世』から何らかの文章を引くべきなんじゃないかと思います。まさに名言の嵐ですよね、この本。
- 作者: ホメロス,Homeros,松平千秋
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1992/09/16
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Dain 名言の嵐、そうそう。ゴッホの描いた絵は展示されている場所に見に行かないといけないし、古代ギリシャ建築を見たいなら、やっぱりギリシャまで行かないといけない。だけど、本だったら、たとえホメーロスでも本屋で買えるし、手元に置いてもおける。ノーベル文学賞を受賞した作品でも文庫で1000円くらいで買えます。お小遣いで買えるわけ。でも、美術作品は中学生の小遣いで買えるか、と。買えるわけがない。買えるとしてもコピーだよ。でも、本だったら手にできるっていうようなところがある。
何千年もの時を超えて
読書猿 ちょっと、また、脱線するんですけど、一説では(定説ではないんですけど)、ギリシャ語のアルファベットって、ホメーロスの叙事詩を書くために発明されたという話がある*17。文字より、ホメーロスが先なんですよ(笑)。で、どういう動機があったんだということになる。なぜ、ホメーロスの叙事詩を書き残したかったのか。ギリシャっていうのは山あり谷ありで、地理的に分断されて、でかい国が作りにくい。それぞれのポリス(都市国家)がばらばらにある。だから、国をまとめるものがないんですけど、唯一あるとしたら、ホメーロスの叙事詩なんですよ。ホメーロスの叙事詩を知っている連中がヘラス(仲間)なんだ、ギリシャなんだ、と。
Dain なるほど、逆なんだ。「お前、ホメーロス知ってる?」「あ、知ってる。知ってる」みたいな、そういう感じなんだ。
読書猿 そうそう。だから、書き残したい、という強烈な動機があるわけです。それで、フェニキア文字なんかを参考に自分たちのアルファベットを作った。その後、どうなったかというと、文字があれば、法律も書けるじゃん、ということが分かった。法律を書くと、何が起こったか。貴族が独占していた政治が、市民に開放された。貴族はそれまで法律の解釈を独占していたわけです。でも、文字として書かれていると、「ここにこう書いてあるじゃないか」と突っ込まれるようになった。それで、ギリシャでは民主制が発達したという。ちょっと話ができすぎているんですけど。
Dain なるほどー。
読書猿 こうしてホメーロスが残ると、ギリシャが衰退して、ローマの時代が来た時にも、それこそ、ウェルギリウスとかローマの詩人にインパクトを与え続けることになる。で、それがダンテに伝わって、彼は『神曲』で、ウェルギリウスに引きずられて地獄に入っていくわけです。その『神曲』をゲーテが読んで、とかいう世界になっていく。本当はギリシャとしては「1つにまとまりたい」っていう、彼らにとっての動機づけがあったんですけど、本はそのような動機づけを超えて、世の中に広がっていき、歴史を貫いて、人類にインパクトを与え続けてきた。もちろん、読む人があってのことなんですけど。
さっきの文庫の話に戻ると、今、僕たちは1000円足らずで世界文学を買えます。これはまた、少し別の話なんですが、僕は図書館を褒めるのにこんなフレーズを使っています。
「あなたは、街の小さい図書館をバカにするかもしれないけれど、そこにも、世界最古のアッシュールバニパルの宮廷図書館にあった粘土板に書かれた物語があるんだ」
これ、『ギルガメシュ叙事詩』*18のことです。そんな本が何千年も時を超えて、日本の小さな街の図書館にまで行き渡ってるんですよ。そうしたつながり、結びつきがあるからこそ、読みさえすれば、自分では絶対行けないような場所にも行けてしまう。図書館は、そういうことが体験できる場所なんだっていう言い方を、僕はするんです。
最近、マシュマロで質問を受けていて、本を読まない人たちと“間接的に遭遇する”ことがよくあります。「本を読んでいると怒られるんだけど、どうすればいいのか」みたいな質問です。
何が「(本を)読む」と「読まない」の敷居になってるんだろうと考えるんです。何を超えれば、読むところに行けるんだろうと。本が読めると世界が広がるというのは、本を読む/読まないは関係なく、僕たちの共通の認識として、きっとあると思うんですよね。僕は本を読むことでいい思いをしてきたから、一応、本を読んだらいいよって心から勧めることができると思うんですけど。
Dain 読書猿さんと同様、図書館を褒める時に最近、僕が推しているのは「図書館は『精神と時の部屋』だ」というものです。『ドラゴンボール』(鳥山明、集英社)に出てくる「精神と時の部屋」。その部屋での1年は現実世界の1日に相当します。つまり、人類が今まで積み上げてきたものをギュッと圧縮したものが図書館にはある、と。なので、図書館の外側で、「何事も経験だよ」と言って経験を1年積むのと、図書館の中でそれに相当するものを調べて勉強するのとは、結果は一緒なんですよ。いや、まあ、ちょっと極端で、そんなことはないと言われるかもしれないけれど、そこまで言ってもいいのでは、と思います。ただ、そう言うと「身体性が」とか、外で1年間、バットを振っているのと、図書館で1日中、野球の本を読んでいるのとは違うじゃん、と言われちゃうかもしれないですけど……、それは、うん、確かにその通り。だけど、知恵の部分については、外と中の部分は「精神と時の部屋」の理屈が成り立つと思います。いや、思いたい。
(「『問題解決の場』としての図書館――スゴ本&読書猿対談 続篇」に続きます)
*1:読書猿:「人文書と違い、科学は新刊が出る」については、ちょっと反省してます。人文系だって新刊が出るので。たとえば今、学校で教えられている歴史って、我々が習ったものとはずいぶん違いますが、これって教科書や授業内容が歴史研究の進展をフォローしているからです。これに対して、研究者が書いてる新書なんかは別にして、歴史関連の一般書って、(子供の頃に歴史を習った)大人がターゲットのせいか、教科書に比べてもずっと古臭い内容だったりする。「教科書が書かない」みたいなキャッチフレーズがありますが、実際は教科書にすら追いついていない。何百年前のことを扱っていても、歴史学は常に最新です。これはもちろん歴史学だけに限らないことであって、人文学は常に最新である、ということは事実です。
*2:「賢明なる素人(informed layman)」――。この言葉はアルフレッド・シュッツの「well-informed citizen (学識ある市民)」に着想を得ています。どこが? というぐらいに中身は変わっていますが……。シュッツの「well-informed citizen (学識ある市民)」は「市井の人(man on the street)」「専門家(expert)」「学識ある市民(well-informed citizen)」という3類型の1つなんですが、僕の「賢明なる素人(informed layman)」は目的なき科学(者)を含む専門知(専門家)への批判・相対化の意味合いもあって、ある意味、おなじみの議論でもあります。「well-informed citizen (学識ある市民)」の邦訳は次の2冊に収録されています。
・『現象学的社会学の応用』(アルフレッド・シュッツ、監修=中野卓、翻訳=桜井厚、御茶の水書房、1980)――第三章「博識の市民 ── 知識の社会的配分に関する小論」
・『アルフレッド・シュッツ著作集 第3巻 社会理論の研究』(編集=A・ブロダーゼン、翻訳=渡部光、那須壽、西原和久、マルジュ社、1991)「見識ある市民 ── 知識の社会的配分に関する一試論」
*3:マートンは科学者集団のエートスを次の4つにまとめている。公有主義(Communalism)、普遍主義(Universalism)、利害超越(Disinterestedness)、組織的な懐疑主義(Organised Scepticism)。それぞれの頭文字をとってクードスの原理(the CUDOS principles)とも言われる。
cf. Merton, Robert K. (1973), "The Normative Structure of Science", in Merton, Robert K., The Sociology of Science: Theoretical and Empirical Investigations, Chicago: University of Chicago Press.
*4:読書猿:プラトン的な「知」は(知らないから知りたい、という)「研究者の『知』」、エピクロス的な「知」は「否応なく知らされた、向こうからぶつかってきた『知』」、あるいは、「なんとか応じようとする問題解決者の『知』」と、言えるかもしれません。
この2つの「知」の類型は、古代ギリシアの視覚理論をベースに着想したものです。
まず、視覚の外送理論を改めて説明します。外送理論では、観察者の眼からある種の視覚光線が送り出され、見られる物体を照らすことで視覚が生じると考えられていました。外送理論の祖、紀元前5世紀・ギリシアのエンペドクレス(B. C. 444頃)は、愛の女神アフロディーテが、 土、水、空気、火の四元素を愛のリベットでつなぎ合わせて眼を作り、宇宙最初の炉の火で「眼の火」を灯し、それを眼球に閉じ込めたと考えました。外送理論はプラトンらに支持され、ガレノスらの医学を通じてヨーロッパ中世に受け継がれ、ルネサンス期にも影響力を持ちました。
プラトンは好んで、視覚を「知っていること」の比喩に用い、精神それ自体の知覚器官を「魂の眼」 「心の眼」と呼びました。「知っている」とは積極的に眼の火の作用を通じて見たことであり、プラトンにとって物が見えるとは、見る側のイメージ形成・想像といった能動的行為の結果でした。
たとえば、ウィリアム・シェイクスピアは「恋の骨折り損(Love's Labour's Lost)」で「光を求める光」という表現を使っていますが、これは「真理を求める眼」の意味で、プラトンが唱えた眼から視覚光線が放射されるという視覚理論が反映されています(Shakespeare, William. Love's Labour's Lost, ed. William C. Carroll. Cambridge and New York: Cambridge University Press, 2009.)。
これに対して、我らがエピクロスやデモクリトスら原子論者は、視覚の「内送理論」を唱えました。見られる対象である物体の表面から、原子からなる薄い層があらゆる方向へ放出され、それらが放出直前の構造と特徴を保持しながら空間を進み、観察者の眼に入り、視覚を生じさせるというのです。つまり、ここでは、視覚は「物が皮膚にあたったことを、触覚が感じるのとほとんど同じメカニズム」で説明されています。現代から見ると、科学的で常識的なこの理論は、大きな物体のエイドラ(自然界の事物から流出する“幻影”)が小さな瞳をどのように通過するのか、また、観察者が複数のとき、視線が交わることでエイドラが衝突しないのかという難点があったこともあり、「外送理論」が優勢の中、長く忘れられていました。
*5:エピクロス(Επίκουρος、Epikouros、紀元前341年 – 紀元前270年)は、快楽主義などで知られる古代ギリシアのヘレニズム期の哲学者。Wikipediaより。
*6:トーマス・サミュエル・クーン(Thomas Samuel Kuhn、1922年7月18日 - 1996年6月17日)は、アメリカ合衆国の哲学者、科学者。専門は科学史及び科学哲学。Wikipediaより。
*7:アウグスト・ベック(August Boeckh または Böckh,1785年11月24日 - 1867年8月3日)はドイツの古典文献学者、歴史家。Wikipediaより。
*8:ジャンバッティスタ・ヴィーコ(Giambattista Vico,1668年6月23日-1744年1月23日)は、イタリアの哲学者。Wikipediaより。
*9:ハロルド・ガーフィンケルが自らの研究方法を呼ぶために作った造語である。文字通りには「人々の - 方法論 (ethno-methodology)」を意味する。Wikipediaより。
*10:フロギストン説(フロギストンせつ、英: phlogiston theory [floʊˈdʒɪstən, flɔ-]、独: Phlogistontheorie [ˈfloːɡɪstɔn-])。『「燃焼」はフロギストンという物質の放出の過程である』という科学史上の考え方の1つ。Wikipediaより。
*11:適塾(てきじゅく)は、蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期に大坂・船場に開いた蘭学の私塾。Wikipediaより。
*12:エルンスト・ルビッチ(Ernst Lubitsch,1892年1月28日 - 1947年11月30日)は、ドイツ出身の映画監督、映画プロデューサー。Wikipediaより。
*13:ビリー・ワイルダー(Billy Wilder,1906年6月22日 - 2002年3月27日)は、アメリカ合衆国の映画監督、脚本家、プロデューサー。Wikipediaより。
*14:トポス(希: τόπος)とは、ギリシア語で場所を意味する語。Wikipediaより。
*15:ホメーロス(古代ギリシャ語: Ὅμηρος、Hómēros、羅: Homerus、英: Homer)は、紀元前8世紀末のアオイドス(吟遊詩人)であったとされる人物を指す。ホメロスとも。Wikipediaより。
*16:プーブリウス・ウェルギリウス・マーロー(Publius Vergilius Maro、紀元前70年10月15日? - 紀元前19年9月21日)は、ラテン文学の黄金期を現出させたラテン語詩人の1人である。Wikipediaより。
*17:Powell, B. B. (1996). Homer and the Origin of the Greek Alphabet. Cambridge University Press.