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「問題解決の場」としての図書館――スゴ本&読書猿対談 続篇

「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」管理人Dainさんと正体不明&博覧強記の読書家 読書猿さんの「知」を巡る対談、続篇です。今回の議論の焦点は図書館。アメリカ建国の歴史と図書館との密接な関係、日本における図書館の来歴――。最終的に2人はあらためて「問題解決としての『知』」に戻ってきます。

読書猿_title

対談者プロフィール

Dain

“Dain”

書評ブログ「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」(スゴ本)管理人。「その本が面白いかどうか、読んでみないと分かりません。しかし、気になる本をぜんぶ読んでいる時間もありません。だから、(私は)私が惹きつけられる人がすすめる本を読みます」

読書猿

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「読書猿 Classic: between / beyond readers」管理人。正体不明。博覧強記の読書家。メルマガやブログなどで、ギリシャ哲学から集合論、現代文学からアマチュア科学者教則本、陽の当たらない古典から目も当てられない新刊までを紹介している。人を喰ったようなペンネームだが、「読書家、読書人を名乗る方々に遠く及ばない浅学の身」ゆえのネーミングとのこと。知性と謙虚さを兼ね備えた在野の賢人。著書に『アイデア大全』『問題解決大全』(共にフォレスト出版)。

谷古宇浩司

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株式会社はてな 統括編集長/サービス・システム開発本部 開発第5グループ プロデューサー。本対談のオーガナイザー。

谷古宇 前回の対談の様子はこちら(「スゴ本」の中の人が「読書猿」に聞く ―― 問題解決としての『知』とは? - はてなニュース)から。アカデミズムに身を置く専門家としてではなく、あくまで素人として「知」と向き合う2人。「知」とは問題解決の側から必要とされるものだという点で一致する彼らの議論はその後、問題解決の場としての図書館の在り方に発展していきます。

関心は分類を貫通する

Dain 問題解決と言うと、ちょっと大袈裟な感じがしますが、悩みと言い換えれば、身近になりますよね。僕も含めて、人はだいたいいつも悩みながら生きている。で、悩みを解決するのに図書館というのは、ものすっごく役に立つんですよ。僕はこのことを10年前、20年前の自分自身に教えたい気持ちでいっぱいです。もし、過去の自分に一言だけメッセージを送ることができるなら、ずばり「図書館に行け!」です。「おい、お前、悩んでるなら、図書館に行け!」と。答えそのものは見つからない場合があるかもしれないけれど、答えに至るまでのアプローチは必ず見つかる。それは「悩みの対症療法を見つける」というたった1つのアプローチにこだわらないということでもあります。問い(悩み)の抽象度を上げれば、つまり、アプローチ次第では、悩みそのものをなかったことにできるかもしれない。数十年前の自分が誰かにこんなことを言われても、たぶん、ピンと来なかったでしょうね。でも、だからこそ、「図書館にはレファレンスサービスがあるんだ」と若い自分に伝えたいんです。

世の中には、調べることにかけてのプロフェッショナルがいる。そんなプロに悩みを相談すると、彼らはその解決に取り組むための資料を紹介してくれます。「この本を読め」というアバウトな形ではなく、「この本の何ページ目の何節」という具合に、ピンポイントで教えてくれる。質問によっては、「この本には悩みを解決するヒントがあると想定していたが、実際、調べてみたら書かれていなかった」という感じで、1人で調べようとしたらきっとぶつかったであろう空振りになる可能性のある本まで教えてくれる場合もある。

人の「悩み」って質問の形にできるんですよ。図書館のレファレンスサービスは、僕たちのそんな悩みに対して、過去数千年間、古今東西の先人たちがどのように取り組んできたかを資料の形で示してくれるんです。自分でやったら下手すると数年くらいかかることを、1~2ヵ月くらいでやってくれたりする。僕が品川図書館でレファレンスサービスを利用した時は、資料の提供まで2ヵ月くらいかかりました。紹介された本はおよそ15冊*1です。10年程前(2007年2月頃)のこと。僕はこういう質問をしました。

最近の若者はダメだというけれど、大昔からずっと言われ続けてきたように思える。では、若者ダメ論の最古の例は?

その時に紹介された資料を元に書いたブログエントリーが 『最近の若者はダメ論』まとめ」: (わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる)です

当時、僕は図書館のレファレンスサービスを辞書や百科事典の延長線上にあるサービスだと考えていました。「自分の代わりに誰かが何かを調べて、答えを見つけてくれる」サービスだと。いやあ、違いましたね。レファレンスサービスというのは、(問題、悩み、課題……の)答えに近づくための方法が書かれた資料を探してくれるサービスでした。もちろん、質問によっては、直接、答えをくれる場合もあると思いますけど、それはレファレンスサービスの本質ではないのではないでしょうか。さっきも言ったとおり、これを図書館の「外」でやろうとすると、大変な時間がかかります。図書館の「中」を利用することで、より短い時間で済む。僕が図書館を『ドラゴンボール』の「精神と時の部屋」になぞらえるのは、こうした理由からです。

そういえば以前、読書猿さんと話をした時に「あっ」と思ったことがありました。「『自分の知りたいことが、図書館のどっかの特定の棚とかコーナーにまとまっている』と考えるのはおかしいことなんだ」と。「自分の知りたいことは図書館の全部の棚にあると考えるのが正しい」。これ、ちょっと説明が必要ですよね。

「自転車」を例にお話をしていただいた記憶があります。図書館の本って、ジャンルごとに分類されているじゃないですか。総記、哲学……、01、えーと、なんでしたっけ……。

読書猿 総記は000番台ですね。哲学が100番台、200番台が歴史で、300番台が社会科学、400番台が自然科学……。

Dain そう、そう。図書館の本は「日本十進分類法(NDC)*2」で区分けされているんだけど、僕たちが調べたいこと、知りたいこと、というのは、そういうジャンルをズバッと貫くようにどこにでもあるって話。調べるための方法、答えに辿り着くためのアプローチのヒントは、総記、哲学、歴史、社会科学、自然科学、技術、産業、芸術、言語、文学、それぞれのジャンルに区分けされた本のそれぞれのページの中に存在してるってこと。

自転車の“何か”を調べたい場合、何も知らなければ、「自転車のコーナー」みたいな棚というか、一角を探すと思うんです。でも、そうじゃなくて、「自転車の『哲学』」「自転車の『歴史』」「自転車の『科学』」みたいに、図書館にある全部の棚が探索の対象になるということを知ってもらいたい。

仮に僕が恋愛に悩んでいたらどうだろう。「恋愛の哲学」「恋愛の歴史」……、なんか、もう、そういうことで悩んでいた人たちが書いた本がめっちゃ出てきそう。「恋愛の社会学」。きっと心理学とか、彼女の心を落とす方法について書かれた本が見つかるはず。「恋愛の文学」なんて、それこそ、山のようにある。「恋愛産業」と言ったら、まあ、ヤバイやつから始まって、いろいろ出てきそうですね。

「別に本なんか読まなくてもいいんだよ」と言う人は少なくないと思います。それはそれで良いんですけど、僕は時々こういう風に質問したくなるんです。「うん、まあ、本を読むか読まないかはとりあえず、脇に置いとくとして――、悩みはないの?」と。「いや、そんなことはないよ、悩みはあるよ。実は気になる人がいてね」となったら、そうか、実は図書館にはきみの恋愛を助けてくれる本がたくさんあるんだよ、と教えてあげたいです。もし、「お金儲けがしたいんだ」だったら、「うん、そういうことを支援してくれる本も図書館にいっぱいあるよ」と。ただ、それらの本は、「恋愛コーナー」とか「お金儲けコーナー」という棚(そういう棚があれば、の話ですが)だけにあるわけじゃない。問題解決のアプローチは、図書館の至る所(すべての棚)にある。パッと見て、分かる所にあるとは限らない。探そうとしなければ、見つからないということでもあるんです。

読書猿 「それ、図書館にあります」という本を書けばいいんだよね、おれたちで(笑)。図書館の本って、日本十進分類法で分類され、配架されてますが、人の関心や、その関心の引き金になる問題の方は、分類に合わせてくれるわけじゃない関心は分類には対応しないんです。むしろ、関心は分類を貫通するっていうか、問題を解くには図書館の分類を横断する必要がある*3。これが問題に直面する素人が「専門家」ではない理由、そして、あれやこれやの書物だけではなく、図書館がまるごと必要となる理由です。

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Dain そういえば、「その本、図書館にあります」というGoogle Chromeの拡張機能がありますよね。アマゾンで見ている本が、近所の図書館にあるかどうかが分かるサービスです。あと、そのものずばりの『図書館に訊け』(井上真琴、ちくま新書、2004)という本がすでにあります。 

図書館に訊け! (ちくま新書)

図書館に訊け! (ちくま新書)

 

本はあなたに何もしてくれない

谷古宇 「(人の)関心は分類に対応しない」というのはとても印象的な指摘です。確かに、問題解決のアプローチとして図書館を使おうとすると、所蔵図書の分類(キーワード)ではうまいこと探し出せないかもしれない。データベースのキーワード検索でも、検索対象は「タイトル」「著者名」「出版社」(条件:AND/OR)なので、本の中身までは探索できないし。だからこそ、レファレンスサービスの重要性が際立つのかと思います。

読書猿 はい。Dainさんの話を引き継ぐと、「図書館学*4」という学問の中には、「なぜ、人は図書館に来ないか」という研究テーマがあってですね(笑)。この研究テーマにはすごい蓄積というか、歴史があるんですよ。現代では「人々の情報行動*5というテーマになっている。

情報行動  システム志向から利用者志向へ (ネットワーク時代の図書館情報学)

情報行動 システム志向から利用者志向へ (ネットワーク時代の図書館情報学)

 

ある人に困りごとがあるとするじゃないですか。その場合、その人はどうするか。図書館に行く人は全体の3%くらいだそうです*6

じゃあ、残りの人はどうするかっていうと、近くの人(友達や同僚など)に聞いたり、仲がよかったら親に聞いたり……、要は身の回りの人に相談するんだそうです。それがだいたい半分くらい。あとは、ちょっと離れた関係の人に聞くとかね。人って悩んだら誰かに聞くんですよ。でね、人に聞けない悩みを抱えてしまった場合は、まあ、人に聞けないわけですから、1人でずっと悩み続けることになる……。

Dain 人力検索はてな」はまさにそういう悩みを解決するために生まれたサービスかも。匿名で質問ができて、どこかの親切な誰かが回答してくれるサービス。「発言小町」「Quora」、読書猿さんもやっている「マシュマロ」も似てますね。こういうサービスに投稿される悩みは、その多くが親や周りの人には聞けないことばかりです。ずぶずぶの不倫にハマっちゃって、とかさ。

読書猿 この前、僕のマシュマロがバズったじゃないですか。

あれから虐待の悩みがものすごい数、来たんです。虐待って、なかなか人には相談できない。自分の親が加害者だったりすると、そういう場合はもちろん、親に解決方法を聞くわけにはいかないし、他の身内や親戚にもそう簡単には言えないですよね。だから、僕みたいな正体不明の輩に相談が来るのかなと思うんですけど。身近に悩みを打ち明けられる人がいない時は、いったいどうしたらいいのか、多くの人はそういう場合の対処の仕方を誰にも教えてもらってないんですよ。

Dain そうか。「誰にも悩みを相談できない時はどうすればいいか」なんて、誰にも教わっていないし、だから、誰にも助けを求められない。なんでかって言うと、まさに「誰にも相談できない悩み(問題)」だから……。

読書猿 そう。学校の先生は、まあ、「気軽に(先生に)相談しなさいね」とは言うんですけど、「図書館に行ってみたら」とはあまり言わないよね。「図書館に行く」って、悩みの解決手段としては、ものすごく回りくどいじゃないですか。おそらく相談した本人も「なんで図書館に行って、本を探して、いちいち読まなきゃいけないんだろう。しかも1人で。答えを知ってるなら教えてよ」ということになる。

ここで、図書館のレファレンスサービスに話が戻るんですけど。

レファレンスサービスは利用者の悩みとか相談、問題に対して、直接、答えないものなんですよ*7。図書館は自分で問題を解決するための場所なのであって、基本的にはセルフヘルプなんです。だから、図書館の司書の方々はできる限り、図書館としての力が及ぶ限り、ありとあらゆる本や資料を探し出し、利用者に紹介して、問題に対応できる手助けをします。ただ「これが答えです」ということは(基本的には)しない。これはいったい、どういうことか。歴史的な背景*8は後で触れますが、その前にもっと大事な話があるんです。以前、Dainさんがブログで引用していた「紙の書籍は、何もしないのだ」という言葉を見て、「ああ、これだ」と思ったことがあって……(参考: 『それでも、読書をやめない理由』は何だと思う?: (わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる)

紙の書籍は、何もしないのだ。紙の本はわたしが集中することを助けてくれる。読書以外にすべきことは何も提供しない。紙の本は、検索も更新もしない代わりに、わたしが取り組むことを静かに待っている。『それでも、読書をやめない理由』デヴィッド・L. ユーリン、翻訳=井上里、柏書房、2012) 

それでも、読書をやめない理由

それでも、読書をやめない理由

 

本(書籍、書物)は無ではありません。豊かな内容が詰まっていて、その内容の背景となる無数の書物への「扉」という意味も合わせ持っています。けれど、本の方からは何もしない。本と図書館をアナロジー(類推、類似)で結んで言うと、図書館は知識と出会える素晴らしい場所である一方で、(本と同じように)何もしてくれない存在なんです。

これが、レファレンスサービスがセルフヘルプの支援に踏みとどまる理由です。図書館は、僕やあなたが何かに取り組むことを静かに待っている。エルンスト・ルビッチ監督の古い映画のタイトルをもじって言えば、Library can wait.(図書館は待ってくれる)*9

あともう1つ、レファレンスサービスが立ち上がってきたアメリカっていう国の風土もレファレンスサービスの成り立ちに大きな影響を及ぼしてきたと思います。アメリカの人たちは本当に図書館が大好きなんですよ。それはもう頻繁に図書館に行く。たぶん、国民の70%くらいは図書館カードを持ってるんじゃないかな*10

Dain 本当!? え、すごい、70%ですか! それは初めて聞いた。

読書猿 『日本の図書館:統計と名簿 2017』によると、日本の図書館カードの保有率は全国平均で41.1%だそうです。また、文部科学省が委託した調査『諸外国の公共図書館に関する調査報告書』の日本の公共図書館の章を見ると、「登録者数の全人口に占める割合は単純計算で33.5%となっているが……」とあります。日本人の場合、30〜40%くらいが図書館カードを持っていると考えればいいのでは(参考:諸外国の公共図書館に関する調査報告書 日本の公共図書館*11

さっき、アメリカ国民の70%くらいは図書館カードを持ってるって言いましたけど、別のデータもあって、「諸外国の公共図書館に関する調査報告書 アメリカの公共図書館」を見ると、サービスエリアの人口規模別に利用者登録率をみると、100万人以上では平均36.2%であるが、100万人未満のところでは、登録者率は約50%となっている。サービスエリアの人口が少なくなるほど登録率が上がり、5万人未満の地域では60%を越えている」とあります。地方の街ほど、人々と図書館との結びつきは強いみたいです。

彼らは引っ越しをしたら、だいたいまずは図書館カードを作ります。日本における町の公民館みたいな施設はあんまりなくて、教会以外で人が集まれる場所といったら、図書館の会議室くらい。だから、図書館に人が集まる。それくらい、何かあったら人は図書館に行くんです。図書館員自身も、図書館というのは「何かあったら人が来る場所だ」という風に思っている。

Dain なるほど〜! あの、ちょっとした小話なんですけど、先日、アメリカの図書館でスーツとかネクタイを貸し出すサービスが始まりましたっていうニュースを見まして。

なんで? と思ったら、就活支援なんですね。スーツを買うには、それなりにお金がかかるじゃないですか。でも、当たり前ですけど、職がないから就職活動をするわけで、そういう人はあんまりお金を持ってないわけでしょう。でも、さすがにTシャツで就職面接に行くわけにはいかんと。

読書猿 ホームレスの人が就活のために、図書館でスーツを借りる。なぜかと言うと、ホームレスの人は図書館しか行く場所がないから……。図書館は暖かいし、ただで本が読める。インターネットもできるし、職探しだってできるんです。

Dain そう、必要であればタダで知識を身につけることができる。なにせ、図書館だから。

読書猿 うん。カップケーキの型を貸してくれる図書館もありますからね(参考)。

Dain カップケーキの型? あ、その話、聞いたことがある。

読書猿 なんでこんなもんが? っていうのがアメリカの図書館では貸し出されています。自転車のロック(鍵)とかね。要するに自転車を盗まれないために。自転車に乗って図書館に行き、図書館でロックを借りて自分の自転車にかける。もう、意味分からないんですけど(笑)、でも、それくらい、いろんなものがレンタルできる。

ベンジャミン・フランクリンとフィラデルフィア図書館会社

谷古宇 アメリカでは、図書館はどんな風に立ち上がって来たんでしょうか。日本の図書館とはだいぶ異なる思想基盤が構築されているように思えます。

読書猿 そうですね。アメリカの図書館のルーツを調べると、100ドル紙幣になっているベンジャミン・フランクリン*12に行き当たります。彼は『フランクリン自伝』(翻訳=松本慎一、西川正身、岩波文庫、1957の中で、図書館が合衆国を作ったんだと言い切っている。これはいったい、どういうことか。 

フランクリン自伝 (岩波文庫)

フランクリン自伝 (岩波文庫)

 

ベンジャミン・フランクリンはもともと、フィラデルフィアの印刷業者でした。

当時、本は非常に高価だったので、普通の人はなかなか本が買えなかった。彼は仲間とクラブを作って討論や情報交換をしていたんですが、討論の中で出てくる書物を相手が持っていなくて読めない、不便だ、と。だったらお互いの本を持ち寄ろうぜ、と。

でも、これはあんまりうまくいかなかった。というのも、いらん本ばっかり持ってくる人が多くて(笑)。本を持っていったまま返さない人たちもたくさんいた。彼はそこで諦めなかったんですね。「もっと、しっかりした組織なら、うまくいくんじゃないか」と、こう問題設定したんです。じゃあ、どうすればいいか。株式会社にしようという話になった。

当時、株式会社の設立というのは、時代の最先端を行く動きなんですよ。世界最初の株式会社はオランダの東インド会社(1602)だと多くの歴史の教科書には書いてありますが、法律規定が置かれたのは1807年のフランス商法典*13が最初です。フランクリンたちの活動はそれより早かった。当時の最先端の組織の作り方、これを使って、しっかりとした組織を作るんだ、と。そのために寄付を募って、会員制の図書館を運営する「フィラデルフィア図書館会社(The Library Company of Philadelphia)」(1731〜)を作った(この会社は今でも活動しています)。それで、図書館の下の階でアメリカ独立のための会議をやったりした*14。「ここからアメリカ合衆国ができた」って言えるくらいの歴史的な場所なわけです。そして、フィラデルフィア図書館会社の成功を受けて、全米各地で会社組織の図書館が作られていった。

フランクリンたちはもともと、みんなで本を読みたかったんですね。だから、その施設を図書館(Library)と言っていた。でも、その用途は必ずしも読書用に限られなかった。フランクリンって、いろんな実験をしてるでしょう。雷の実験とか。その流れで、顕微鏡や望遠鏡*15、実験器具なんかを図書館で貸し出していた。こういう経緯を見ると、アメリカの図書館が「書物だけの場所」じゃないことが分かります*16。当時はまだ、アメリカにはほとんど大学がありませんでした。いや、まあ、ないことはなかったんですけど、当時の大学、カレッジというのは牧師さん、いわゆる聖職者になるためのものなので*17、非宗教的な高等教育機関というのじゃなかった。じゃあ、科学の研究をしたい人たちっていうのはどうするかといったら、自分でやる、ということになる。なので、図書館でそういう人たちを支援するという感覚だった。フランクリンたちは「ここはおれたちの大学であり、シンクタンクなんだ」という意識でやっていたんじゃないかな。で、そこで集まって、資料を持ち寄って、いろいろ議論をした結果、消防組合を作ったり、病院を作ったりし始めたんです。

Dain フィラデルフィアという街は図書館を中心に出来上がっていったのね。

読書猿 そう、出来上がっていった。「今、この街が直面している問題は何だ」ってことになったら、みんなで図書館に集まって議論をして解決策を導き出したわけです。資料が揃っているのはまさに自分たちがいる図書館だから、すぐにいろいろなことが調べられる。そういうことがあって、図書館が街の政策を策定する中心的な役割を担っていくことになった。アカデミズムの流れも図書館に集まる人たちが作っていった(*フィラデルフィア・アカデミー(後のペンシルベニア大学)は1751年に創設。アメリカの知的風土だけじゃなく、政治的、経済的な基盤も図書館で作られた。

Dain 図書館の話から、ライト兄弟*18のことを思い出しました。自転車屋だった彼らがどうやって、1903年に有人動力飛行を成功させたのか。以前、 人類は飛行をどのように理解したか『飛行機技術の歴史』『飛行機物語』」: (わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる)というエントリーを書いたんですけど、ウィルバー・ライト(兄)はスミソニアン博物館を通じていろんな資料を取り寄せ*19、当時の航空工学の全容をある程度、把握していたと言われています。先行する膨大な飛行実験の記録を読み、落ちるリスクをできる限り排除して、彼らは飛ぶべくして、飛んだ。ライト兄弟はおそらく、(ライトフライヤー号の)エンジンの開発はすごく頑張ったんだと思う。エンジンを飛行の推進力に使うことは、自転車屋さんだからなんとかできそうだ。でも、翼の「形」をどうすればいいか、とか、エンジンの重さに対して、どれくらい「広さ」をとればいいのかを決めるには、いわゆる航空力学の知識が必要だった。その知識のギャップを埋めたのが(図書館を備えた)博物館だった。言い方を変えると、ライトフライヤー号を飛ばしたのは図書館(博物館)だった*20、というのをブログに書いたことがあるんです。さっきの読書猿さんの話を聞き、「あ〜、なるほど、図書館がアメリカの歴史の中ですごい重要だったんだ」と、今、改めてつながったわけです。

読書猿 アメリカ図書館協会(American Library Association)は、「図書館は『An American Value』」だと言っています。彼らにとって、図書館は「アメリカの価値」なんですよ(参考:「Libraries: An American Value」American Library Association))。

Dain うんうん。今の話で納得がいく。読書猿さんの話を伺っていると、アメリカの人にとって図書館というのは、本「も」貸してくれる場所なんでしょうね。本を貸してくれる「だけ」の場所じゃなくて。もっと言うと、アメリカ人にとって図書館とは「自分のやりたいことをやるための場所」なのかもしれない。あるいは、やりたいことをやるための方法を調べられる場所、やりたいことをやるための手助けが得られる場所――。日本人とアメリカ人では、図書館に対するイメージがけっこう違うのかもしれないですね。

図書館に漫画を置いてもいいのか

谷古宇 今のお話を伺うと、アメリカの図書館はベンジャミン・フランクリンを始めとした熱意ある個人の集まりが起点になって興ってきたように見えます。すると、やはり、「じゃあ、日本の図書館はどうなんだろう」という好奇心が沸き起こってくる。

読書猿 アメリカと日本の図書館にはやはり、けっこうな違いがあって、それはレファレンスサービスに対する姿勢にも表れている気がします。日本で図書館というと「無料貸本屋」などと揶揄されることがあるように「本を貸し出してくれる場所」だというイメージが強くて、レファレンスサービスってやってることはやってるんだけど、利用はというと低調だとずっと言われてきた*21。これ、聞く人によっては悪口に聞こえるかもしれないので、後で怒られそうなんですけど……*22

戦後の日本の図書館は「図書館運動*23の中で、本の貸し出しを中心にやって来たんですね。それで、図書館に人が集まるだろう、まずは来てもらうことが大事なんだ、と。で、それは確かに成功して、来館者も貸し出しも増えた。その追い風に乗って、日本各地にたくさん図書館ができた。しかし、その成功体験から抜け切れていないのが今の日本の図書館を巡る、問題といえば問題、なんだと思います。図書館で無料で本が借りられることは多くの人が知ってくれた。では、その次は? 一定目標を達成したところで、図書館は何を目指すのか、次の未来像はまだ描けないでいる。というか、財政状況とか指定管理者制度とか、外圧に応じるのに必死で、それどころじゃないのが、今の図書館なのかもしれません。

実は、レファレンスサービス的な事業というのは、図書館が貸し出し中心になる以前にも芽があって、もちろん、やっている人たちはいました。1950年代くらいかな*24。でも、貸し出し主義がメインになってからは、相対的に省みられなくなっていって、今に至るという。

僕らはレファレンスサービスが必要なんだ、調べ物が大事なんだって言っているんだけど、図書館業界でレファレンスサービスは、貸し出しに比べると、決してメジャーな流れになっていないというのは残念ながらあると思います。またメタなことを言い出すと、それは「『知』は役に立つ」っていう考え方があまり力を持ち得ず、それゆえ「知」を求めて積極的に動くという行為の優先度が下がり、結果的に「知」の探索を支援する公共のサービスも“低調”になってしまっているんじゃないかという懸念というか仮説になるんですが……。さっき、Dainさんが「別に本なんか読まなくてもいいんだよ」と言う人の話をしたじゃないですか。同じように「知識があったってしょうがないじゃないか」「学校に行ったって仕方がないじゃないか」っていう人たちもある程度いると思うんです。彼らは「『知』が役に立つ」ということを承認していないんだと思う。

Dain さっきの公共図書館の話の流れで、以前、読書猿さんに「これはスゴ本!」と紹介していただいた『公共図書館の冒険』(編集=柳与志夫、田村俊作、みすず書房、2018)を思い出しました。

公共図書館の冒険

公共図書館の冒険

 

読書猿 あれ、とんでもない本ですよね。

Dain すんごい本。あの本によると、今、公共図書館は変わろうとしている。貸し出し主義の成功体験からは、なかなか抜けきれないんだけれど、でも、図書館で働いている現場の人たちは問題意識を持っていて……。もちろん、貸し出しは大事なんです。だけど、それだけではダメで、これからは「問題解決をするための図書館を目指すんだ」という、そんな強い思いが伝わってきます。

つまり、図書館というのは、

  • 利用者:「この本を貸してください」
  • 図書館:「はい、これですね」

という、単に本の貸し借りだけの関係に終始するのではなくて、

  • 利用者:「この問題をなんとかしたいんですが」
  • 図書館:「それなら、この資料がお役に立つかもしれません」

みたいに、本の貸し借りという関係自体は同じだけれど、本を介して、地域社会に住む人々とコミュニケーションしていく関係を作り上げていくべきでは、という。これまでとは違う役割の確立を目指そうというわけです。

一方で、あの本には「“低俗な小説”は日本人の識字率を上げるためには必要かもしれないけれど、本当は純文学のような“高尚な文学”を云々――」みたいなコメントとか引用文があったりして、「ん?」と思ったりもしました。

読書猿 いや、あれはね、あの本の意見っていうよりは、そういう流れが図書館の中にずっとあったんです。

『図書館戦争』(有川浩、角川文庫、2011)っていう小説があるじゃないですか。あの作品はまさに「図書館の自由に関する宣言」(1954)*25から着想された小説なんだと思うんですが*26。『図書館戦争』では、図書特殊部隊をはじめとした図書館の人たちが、表現の自由のために一生懸命、それこそほんとに命を賭けて、闘いますよね。でも、現実には図書館って、どっちかと言うと、あの小説に出てくる良化隊*27の方の立場だったんです。戦前は検閲の手先でもあったし、思想善導機関として人々に“良い本”だけを押し付けるようなこともやっていたわけです。で、その反省があって戦後「図書館の自由に関する宣言」が出た。あれは、反省であり、反動でした。「おれたち図書館は、これまで酷いことをやって来た、国民に“良い本”だけ押し付けてきたんだ」っていう反省があって、あの図書館宣言につながるんです。そういう状況があったことを前提としながら、でも、この本(『公共図書館の冒険』)はもう一歩踏み込んで、「でも、そういう両価的な(アンビバレントな)戦前の動きも、ないよりはましだったんじゃないの」と。

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で、いわゆる戦後民主主義的な見方で言うと、戦前の図書館は全部ダメ、となって、戦後の流れになっていくんですけど、それに対して、『公共図書館の冒険』は、ある程度の留保というか主張を出している。ただ、図書館にはやっぱりずっと“良い本”を置くということが運営方針の底流にある。戦前は「図書館に小説を置いていいのか」っていう議論があった。戦後なら漫画ですね。『公共図書館の冒険』にも「図書館に置いていない本」っていう章があったじゃないですか。あれはすごく大事な章です。

最近の図書館では漫画もたくさん所蔵されています。でも、そこに至るまでにはものすごい抵抗があった。だいたい、図書館が漫画を分かっていなかったので、何から置けばいいのかが分からない。だから、まずはその議論から始めた。最初は漫画の中の“良書”を置いていったわけですよ。それこそ、手塚治虫の『火の鳥』『ブッダ』のような、作品の評価がある程度確立していて、いわゆる漫画の“文芸化”というか、小説における“純文学的な位置づけ”になっている作品。でも、本当はそうじゃないっていう議論もあるわけです。『ドラゴンボール』『ワンピース』みたいに、その時代、その時代で本当に売れている(読まれている)漫画があって、それらを置かなくていいのかっていう議論です。それはいまだに続いていると思います。そもそも「図書館に漫画を置くべきなのかどうか」という議論も完全に決着しているわけじゃないですから。そういう意味で言うと、現実の図書館は必ずしもすべての本を扱っているわけではないのです

さっきの『図書館戦争』の中には、漫画って出てこないんですよ、一冊も。おかしな話じゃないですか、主人公たちが表現の自由のために闘っているのであれば。戦後、“悪書”として叩かれてきた筆頭は漫画です。まあ、小説(の世界)なので当然、偏っていてもいいんですけど。あそこまで検閲のひどい社会だと、漫画はとっくに滅んでいるってことかもしれないし。とにかく、『図書館戦争』で描かれていないものが『公共図書館の冒険』の中にはいろいろと出てくるので、合わせて読むとよいと思います。

王宮図書館から公共図書館へ

読書猿 ところで、「図書館はどんな本を扱うのか」というテーマは図書館を考える上ではけっこう大事で、いわゆるライプニッツ*28(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ)の「図書館改革案」(『ライプニッツ著作集 第II期 第3巻 技術・医学・社会システム(監修=酒井潔、佐々木能章、工作舎、2018)収録)に、王宮図書館、要は王の書庫を「誰が来てもいいんだ」というふうに公共化(公共図書館化)するという話があるんです*29

ライプニッツ著作集 第II期 第3巻 技術・医学・社会システム

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図書館の長い歴史の中で図書館員というのは、その歴史のほとんどをブックキーパーとして、つまり、“本の番人”として、本をなるべく人に見せないこと、人から本を守ることに専念してきました。書物は非常に高価でしたし、そういう意味で図書館はある種の宝物庫だったのです。

で、王宮図書館には、王様という「唯一のユーザー」がいてですね、その人用にすべてがアレンジされているわけです。王様だけが来る場所だから、王様に合わせて蔵書を揃えればいい。サービスも王様のために設計すればいい。ライブラリーという概念は、個人の書斎や書庫から図書館まで含むわけですが、どれだけ大きくても王宮図書館は「王様の書斎」に過ぎない。これに対して、パブリックライブラリーというのは、全然違う概念なんです。

公共の図書館は誰でも利用できる場所ですよね。誰でも来ていいとなると、運営側は、どんなニーズを持った人が来るのか分からないから、どんな人が来てもいいように、ありとあらゆる書物を揃えなければいけなくなる。もちろん、全部は無理です。しかし、できるかできないかはともかく、少なくとも全方位的に揃えなければいけない、という方針が立てられる。全方位的に収集された蔵書群が必要だ、となると、蔵書を整理するための全方位的な図書(館)分類が必要だろう、という風につながっていく。

全方位的にたくさんの本を集めることができたら、そこは誰か特定の人のニーズに合わせた場所じゃなくなるから、個々のニーズを抱えた利用者たちのために、それぞれの問題に対して、オーダーメイドで対応できるレファレンスサービスが必要になるだろう。こうして、かつては利用者から書物を守るために、あるいは、書物から遠ざけるために存在していた“本の番人”である図書館員は、図書館の利用者と書物を繋ぐ人(仲立ちする人)に変わっていく。パブリックライブラリーとは、そういう場所なんです。

残念なことに日本の図書館はまだまだ、パブリックライブラリーの理想には追いついていません。そもそもパブリックライブラリー論という研究領域も発展途上です。ただ、理念としてはすごい。あらゆる「学」をカバーするパンソフィア、いわゆる「汎知学*30」という流れの具現化、そして、末裔かもしれない。まあ、普通に考えると「絶対ムリ」ってなるじゃないですか、1人の人間があらゆる学問を知るとか、そんなにたくさんの情報を扱うなんて。でも、それに近いことを組織として実現することが、パブリックライブラリーには求められている。図書館は、だから、本当はすごい場所になるはずなんです。誰が来ても対応できるような図書館になるって、すごいことなんですよ。

現行の図書館分類、NDC(=日本十進分類表)には、時代の流れに対応しきれていないという欠点はあるんだけど、それでもやっぱり、パブリックライブラリーの理想を目指して作られたものだから、かなりしっかりしているし、一定の成果ももちろん、きちんと積み重ねて来ています。どんな本がやって来ても、一応は図書館に収めることができる。これまで存在しなかった種類の本、たとえば、漫画が登場しても、700番台(実際は726)にちゃんと場所がある。漫画が増えていくと、(漫画の)棚が膨れ上がるんですが……、膨れ上がると言えば、これまでコンピューター関係の本はその多くがいわゆる工学系のところに分類されていたんですけど、最近では007の情報系のところ、つまり、総記の007.3にも収められるようになってきた。(「総記」と「技術・工学」に)散らばってしまった上に、それぞれで膨れ上がっている状態です。今後、ITまわりの本はさらに増えていくでしょう。……と、まあ、いろいろ問題はあるんだけど、でも、全方位的に本を分類するという方向性自体は間違っていないと思います。

わたしが知りたいことは、きっとあなたが(すでに)探してる

Dain 日本全国の図書館のレファレンス事例を検索できる「レファレンス協同データベース」というサービスがあります。あなたの悩みはすでに誰かが悩んでいる、と言いましたけど、まさにその質問はすでにされている、という。

読書猿 このサービスは調べものにめちゃくちゃ役に立ちますよ。調べもののコツの1つは、スゴ本ブログの正式タイトルになぞらえて言うと「わたしが知りたいことは、きっとあなたが(すでに)探してる」です。つまり、自分が見つけたいものを探している「誰か」を見つけること。このサービスは調べもののプロがやった仕事を再利用できる。ただ、事例を集め出してまだ日が浅いし、すべての図書館が事例をあげているわけではない。本格的な動きはこれからだと思うんですが*31

Dain でも、こういうサービスがあること自体が嬉しい。ちょっとだけ『問題解決大全』(読書猿、フォレスト出版、2017)の話に戻るんですけど、その中で「その悩みはもう悩まれている」と読書猿さんは書いているじゃないですか。それと同じように、誰かのレファレンスのリクエストはすでに誰かがやっているんです。すごくよかったのが、「三浦綾子と似た作風の作家がいたら紹介してほしい*32」っていう質問。最初これを見た時、「似た作風ってなんやねん!」と思ったんだけど、図書館はちゃんと回答してくれる。ふわっとした質問でいいんですよ。

読書猿06

読書猿 むしろ、ふわっとしたやつの方がいいよね。

Dain うん。“なんとか”みたいな小説とか。たとえば、「少年時代にこういうエピソードがあって、おばに引き取られて、みたいなあらすじの本なんだけど、どんな本?」という感じの質問。はてなブックマークでけっこうな数のブックマークがついていたのが、「魔法が使えるようになりたい*33」っていう小さい子の質問。これには感動した。

読書猿 すごく真面目に聞いてましたね。

Dain そう、そう。すごく真面目に。あ、これ、これ、これ!

読書猿07

この質問と回答のやり取りには、ちょっとね、涙が出た。図書館の人がガチで答えているんですよ。「児童室のカウンターにて男の子に『魔法の本ありますか?』と聞かれる。詳しく聞くと、魔法が使えるようになりたいということらしい」。本人は本気で悩んで、本気で質問しているんですよ。だからその本気に、本気で答えた。

読書猿 そこなんですよね。どんな質問であれ、本人が本気なら、図書館も本気になるんです

Dain そう。「子どもが言うことなんて」と言うのは簡単。あるいは、「こんな占いの本があるよ」と言って、子ども向けの占いの本を渡すのも簡単。だけど、そんなことしないんですよ。「魔法が使える」ことにしっかり向き合った本を探してくる。そして、もっと良いのは、質問してきた子は6歳なんですけど、その子が読むための本を出している。「超秘術〜」みたいな難しい本を持ってくることも可能。だけど、まずはこれからどう? っていう入り口を示しているのもすごい。その後、この子が魔法を使えるようになったかどうかは分からない。けれども、魔法を使えるようになるためには、何らかの修行なり、トレーニングが必要だ、ということは分かったはず。そして、それを調べる方法が図書館にある、ということも分かったはず。

読書猿 魔法は使えるようになれなくても、彼はこの日を境に図書館を使えるようになるかもしれない。そしていつか、途方に暮れていた自分の手に魔法の本を渡してくれたあの人こそ、本当の魔法使いだったのだと知ることになるかも。

Dainはいかにして、Dainになったのか

谷古宇 “魔法使い”の彼も大人になったら、Dainさんや読書猿さんのように図書館を縦横無尽に使い倒す人になるかもしれないですね。ところで、Dainさんのブログ(スゴ本)を読んでいると、ものすごい読書量であると同時に、アウトプットの量も桁外れで目眩がしそうです。Dainさんが今のDainさんになったのはどういう「きっかけ」からなんでしょうか。

Dain 僕のブログの初期の記事を見ると分かりやすいですけど、「スゴ本」というブログは最初はプリキュアブログだったんです。(初代)プリキュアへの愛がテーマだった。「なぎさ」と「ほのか」の友情がいかに尊いかを書きたかったんです。で、ついでに、自分がこれまで読んできた本についても書いて、次に読む本につなげていく、という体裁だった。そこで、いろんな人のお薦めを読み漁っているうちに、いつの間にか、思いもよらない領域まで開拓するようになってしまったw。自分ひとりのアンテナだけでは、こうはいかなかった。

あと、自分の中にずっと居座っているテーマがあって。色々な形で書いてきたけれど、何度も戻るのが「『生きること』と『死ぬこと』の話」。昔、近しい人が死んでゆく様を見て、僕は何もすることができなくて、トラウマじゃないけど、ずっと引っかかってきているんです。その引っかかりを自分の中で扱うために本を読んできたという面もあります。

あるいは、ありがちですが、青春の後悔を引きずっていて、記憶を上書きしてやれないか、と。今で言うぼっちだったネクラな中学〜高校生時代を、別の記憶で上書きしてやろうと。じゃあ、いっそのことラノベやエロゲーに走ってみよう、恋愛ものも読んでやれ、そういう動機で本を選んでいる時もあります。

あとは……、何かの全体を知りたい時は本に向かいます。本は自分の知りたいことが、本という形で物理的にパッケージングされているから、自分の知りたいことが(全体のうちの)「部分」なのか、まさに「全体」なのか、その距離感がつかめるんです。

たとえば、料理。

インターネットには沢山のレシピサイトがありますが、そのレシピの多くは、家事における「料理全体のこと」じゃなくて、個々の料理の「調理の仕方」を紹介しているに過ぎません。僕が知りたいのは、「今の季節で旬な食材には何があるのか」「それらの旬の食材を安く手に入るにはどうすればいいか」「家族の好みや健康状態も考えながら、なおかつ限られた時間の中で、主菜・副菜・汁物を調理するにはどうやればいいか」です。このような考え方を僕は、レシピ本コーナーの隣にある、小林カツ代のエッセイで知りました*34。僕が望んでいるのは料理の美味しさや栄養のことだけじゃないんです。

つまりですね、僕が本を読むのは、何回も繰り返していますが、自分の悩みごとを解決するため、自分の興味をつなげていくため……なんですね。とりとめがなくて、すみません。「DainはどのようにDainになったのか」なんて、あんまり、ちゃんと考えたことがなかった。

あと、「なぜ、あんなタイトルのブログにしたんですか」とはよく聞かれるんですけど、それはブログを開設する時、それが自分にはかっこいいと思えたからです。

それと、これはけっこう重要なんですが、僕自身はあまり本を読みません。読書猿さんがよく「僕はあんまり本を読まない」という言い方をしていて、「ウソつけ!」って思いますがw

読書猿 いや、いや、本当なんです(笑)

Dain 読書猿さんと同じ思いがたぶん僕にもあって、僕自身、たくさん本を読んでいるように見られているかもしれないですけど、実は、あんまり読んではいないんです。大体、「ハリー・ポッター、まったく読んでないです」って言うと、「は?」って言われます。積読は確かにありますよ。大学生の頃、沢山の本を積んでいましたが、ある時、気づいたんです。読みたい本の量の方が、自分の人生の残り時間よりもはるかに多いと。みんなが読んでいるからといって、ハリー・ポッターまで読んでいたら、僕の人生、タイムオーバーになっちゃう。自分はそんなにたくさん本を読んでいないからこそ、もっといっぱい読みたい。逆説的な言い方なんですけど、「本を探すために本を読んでいるようなもの」なのかもしれません。

たとえばですね、これ(『ヨーロッパ文学とラテン中世』(E・R・クルツィウス、翻訳=南大路振一他、みすず書房、1971))の17ページ目で、ヨーロッパを知るためには「ゲーテを読まんとあかんな*35」とつくづく思いました。『ゲーテとの対話』(エッカーマン、翻訳=山下肇、岩波文庫、1968)っていう本があるんですが、あれもぱっと思い浮かんで、あれも読んでおかないと、ヨーロッパはうまく理解できないなと直感したんです。もう1つ、岩波文庫つながりで『神々は渇く』(アナトール・フランス、翻訳=大塚幸男、岩波文庫、1977)。この本も名前だけを知っていて(だからまだ読んでないんですけど)、『ヨーロッパ文学とラテン中世』を読んでいるうちに、「読まなきゃいけない」っていう感覚が、まるで身体の中に静かに火が灯るように浮かんできたんです。僕はそんな風にして、つながりの中でしか本を読んでいないので、皆さんが意外に思うほど少ししか本を読んでいないんです。本を読むために本を読む、というのはこういうことです。今、読んでいる本で、次に読む本につながっていく。

ゲーテとの対話(全3冊セット) (岩波文庫)

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神々は渇く (岩波文庫 赤 543-3)

神々は渇く (岩波文庫 赤 543-3)

 

ちょっとだけ関係ない話ですけど……、少しは関係あるかな、読書猿さんにTwitter経由で教わって、毎晩少しずつ読んでるのが『最新世界史図説 タペストリー』(帝国書院編集部、帝国書院、2017)。これを繙いていると、自分が今までピンポイントで読んできたものが、歴史のつながりの中に浮かび上がってきます。

最新世界史図説 タペストリー

最新世界史図説 タペストリー

 

合理的なコミュニケーション、儀礼的なコミュニケーション

読書猿 さっきの実学の話(参照:「『スゴ本』の中の人が『読書猿』に聞く ―― 問題解決としての『知』とは?」 - (はてなニュース)に戻るんですけど……、たとえば「自由とは何か」みたいに考えることって、現実の生活とか目の前の仕事にはあまり役に立たないと思われているじゃないですか。

この本(『問題解決大全』)、ビジネス書にしてはかなり変でしょう。まず序文がすごく長いし(笑)。でもこの本は、むしろ序文を書くために書いているようなところがあってですね。「自由って何だ」ということを最初に書かないと、そもそも、問題解決の本って成り立たないじゃん? と思って僕はあの序文を書いたんですよ。

問題解決というのは「自分がやりたいこと」、あるいは「こうしたい、ああしたいっていうこと」、つまり、「自由」を実現するための方法なんです。ここをはずして、問題解決の本は書けないと僕は思うんです。でも、必ずしもそうじゃない本が世の中には少なくない。なぜ、そういう根本のところを書かずに、ロジックツリーとかピラミッドストラクチャーとかやっちゃうんだろう。ロジックツリーを活用した問題の切り分けって、うまく使えば仕事がスムーズに進む。それは確かにそうかもしれないけれど、その前に前提というものがあるじゃないか、と。前提から改めて考え直せば、(問題に対して)メタな視点に立てるし、問題ってすごく解きやすくなるんですよ。今まで思いつかなかったようなアプローチから問題を考えることもできるし。そもそも既存のやり方でうまくいかないから、問題解決なんて必要になるわけで。『問題解決大全』はそういうことを言いたくて、書いた本なんです。

で、改めて「自由とは何か」という問いですけど。こういう風に物事を抽象的に考えることで、実はすごく楽ちんに生きていける。お金も稼げる。抽象的なことは生きていく上ですごく役に立つ。まあ、僕はもともと役立たずな人間なんですけどね(笑)。ずっとみんなにそう言われて来ていて、やってた学問が哲学だったりするわけですから、「やっぱり、そうなのかなあ」って、ある程度のところまでは思っていたんですけど、でも、ある時、どう考えても僕のやり方の方が役に立つよなーって気がついたんです(笑)

どう考えても僕の方がうまいこと問題を解けるし、うまいこと考えられているよなって。で、これってどっから来ているかというと、役に立たないと言われていた哲学や論理学のアイデアとか技法だったんです。社会学の方法論とか儀礼論なんてのも、実生活には全然役に立たないとみんな思っているかもしれないけれど、でも、僕にはめちゃめちゃ役に立っている。儀礼論を人間関係に応用すれば、百戦百勝できるのに、そういうことはビジネス書には書かれていない。

だから、いつか『コミュニケーション大全』という本を僕が書くのであれば、たぶん二部構成にしてね、2つの「R」で考えようと思っています。前半は「合理的(Rational)」なコミュニケーションについて。いわゆる交渉(ネゴシエーション)学で扱われているものは、お互いに合理的な主体同士の、つまり、計算ができる人間同士が行うコミュニケーションです。でも、多くのコミュニケーションは実はそうじゃなくて、損得勘定だけでは決着がつかない、非合理的な部分の比重が実は大きい*36。とはいっても、人間同士が行うコミュニケーションなんだから、ルールと言うか、ある種の法則性はあるわけです。そっち側はきっと「儀礼的(Ritual)」なコミュニケーションとして扱えるだろう。儀礼っていうのは、余所からみると面倒くさい上にくだらないんだけど、その中に居ると、ちょっとでもないがしろにされると激しい怒りを覚えるものなんです。RationalとRitual、この2つでコミュニケーションの問題はほとんど解決できるじゃないか。なんで、コミュニケーションの領域でこういう技法を使わないんだと常々、思っていて……。

Dain 問題解決の技法は「やりたいことをやる」ためのものなのに、その「やりたいこと」を軽く飛ばして「技法」だけを並べている。前提や背景の制約のことに目もくれず、個別の技法ばかり書いているビジネス書を見ると、「それ、本当にやったことあるの?」と聞きたい気持ちにもなります。さっきの「料理」と「調理」の話じゃないけど、個々のレシピを並べているだけでは家事としての料理全体は見えてこない。

「DainはどのようにDainになったのか」と同じように、「読書猿さんはどのように読書猿さんになったのか」という問いもある。その答えは「読書猿Classic: between / beyond readers」に書いてあるし、『問題解決大全』にも記されているんだけど、この問いはこういう風に言い換えると分かりやすくなる。「なぜ、読書猿さんは本を読むのか」。それは「自由になるため」なんですね。以前、こういうエントリー(問い:何故学ぶのか? → 答え:自由になるため」 (読書猿Classic: between / beyond readers))を書かれたじゃないですか。この中で読書猿さんは、南北戦争以前の時代のアメリカで、自由になるため*37に文字を覚えた元奴隷フレデリック・ダグラスを紹介しています。これ、「文字」と「奴隷」の関係だけではなく、「本」と「前提」の話にも通じます。

じゃあ、何からの自由かと言うと、本を読む前の自分自身からの自由なんですね。本を読む前の自分は、何かに囚われている。それは特定の考え方だったり、偏見といった概念的なものから、「いま」「ここ」という時空間、物理的な重力や環境みたいなものまで含まれる。そうしたものを当たり前だと思っている自分自身が、実は制約なんだ*38

そもそも日本語を使っているという時点で、日本語で扱える表現の範囲も含めて、自分が信じている観念には“ある前提”が存在する。そういう縛りからいったん離れて、そうじゃないものに触れるために、あるいは、他の視点があるんだっていうことを知るために、本を読むんだと。これがまさに「なぜ、読書猿さんは本を読むのか」→「自由になるため」という理由にもなるのだと僕は思っています。

それはそれとして、本を読まない人は、やっぱり読まないと思います。でも、すごく余計なお世話を承知で、本を読まない人をどうやって本を読む側に引っ張り寄せるかという問題について、「答えがここに書いてあるじゃん。これを読めば、どんな問題に対しても“百戦百勝”でしょう」という例を1つ思い出しました。

「ニーバーの祈り*39です。アメリカの神学者ラインホルド・二ーバーが神に祈るんです。

変えられないものを受け入れる力をください。変えるべきものを変える勇気をください。変えられないものと変えるべきものを区別する賢明さをください……

僕はこの「祈り」をインターネットで知って、自分なりに工夫しながら実践してきた後、『問題解決大全』の32ページ目に同じ方法が具体的に書いてあるのを見て、「ここに答えがある!」と思いました。

ちなみに僕は「二ーバーの祈り」を主に夫婦間でのコミュニケーションで実践しています。パートナーと時間を共にする中で、「変えられないこと」と「変えるべきこと」が、だんだん分かってきます。「変えられないこと」は受け入れるしかないんです(みなさん、ご承知おきかと思いますがw)。

そこで最も重要なのが、「変えられないこと」と「変えるべきこと」を区別することなんです。できないことにリソースを割くのはやめて、「変えるべきこと」の中で「できることは何か?」「どこまでできるのか?」を見極めて、着実に実行すること。そして、どこまで「できる」のかを見極める上で、ロジックというのはとても役に立ちます。このことは夫婦間の話だけに閉じず、ビジネスの現場で「できる」ことを見極めるためにも普通に役に立ちます。ただ、当たり前のことですが、世の中の事象の全部が全部、ロジックで動いているわけではありません。さっきの「合理的(Rational)」なコミュニケーションの話じゃないけれど、みんなが合理的に動いているわけじゃないですからね。

じゃあ、非合理なところは「何」で動いているかというと、感情なんです。ロジックと感情この2つをまとめたのがレトリック(修辞学)の始まりだと知って衝撃を受けました*40。ロジックだけで人を動かそうとしてもそう簡単には動かない。だから、感情も込みで「人をどうやって動かすか」について、徹底的に考え抜かれたのが修辞学なんですね。感情の部分が抜きにされて、ロジックのところだけが哲学的思考として広まっているのが、現在の主にビジネスの現場のロジックを巡る問題なんじゃないかと思うんです。

イソクラテスと実践知――そして、フィロロギーへ

読書猿 今回の対談で出さなきゃいけない人物の1人に、イソクラテス*41がいます。プラトンとほぼ同時代の人で、彼の哲学的なライバルです。プラトンの10年くらい前に、彼もアテナイに学校を建てた。プラトン同様、フィロソフィア(哲学)の学校なんですが、哲学の中身が違う。イソクラテスに言わせると「おれの方が本家だ」と。

フィロソフィア(哲学)の元になったギリシャ語の動詞は「Φιλοσοφείν」(ピロソペイン)です。「フィロソフィア」(「知を愛する」)っていう言葉は最初、どういう人たちに使われていたかというと、プラトンを始めとした哲学者ではなく、実はソロンとか、ペリクレスなどの政治家なんですよ*42。つまり、哲学とか「知を愛する」という言葉は、元々、実践知の分野で使われていた

イソクラテスがソロンなどの実践家をモデルにするのに対して、プラトンはピタゴラスという神秘家、理論家をモデルにしました。ここには2つの「知」のあり方、方向性の対立があります。1つが厳密知=エピステーメーと言われるもの、もう1つが実践知=ドクサ*43です

「実践知=ドクサ」だけでも世の中のことは大抵うまくいくんだけど、いや、それだけじゃダメなんだとプラトンは「実践知=ドクサ」を攻撃する。「そんないい加減な知識だけでやっていてはいかん。いつでも必ず妥当するような『厳密知=エピステーメー』を求めなきゃダメなんだ」と言う。だから、数学をとことんやった。そして「厳密な思考ができるようになってから、哲学に入ってこい」と人々(弟子たち)に言った。

これに対して、イソクラテスは「そうじゃないんだ。『厳密知=エピステーメー』というのは、現実の問題に対して、いつも必ず間に合わないんだ」と言うわけ(笑)。「好機(καιρός:カイロス)は厳密知(επιστήμη:エピステーメー)の目に止まらない」と。

ある時期までは、プラトンと拮抗する感じで西洋哲学史の中にイソクラテスのフィロソフィーの流れもあったと思うんです。でも、勝ったのは、つまり、フィロソフィーの使用権を勝ち取ったのは、プラトンだった。その結果、現在、僕たちが西洋哲学史で学ぶように「哲学(フィロソフィー)っていうのは、厳密知なんだ」っていう風につながっていく。

『アイデア大全』が出版される直前に実践知の系譜について、ブログエントリーを書いたんです(参考: かしこいはつくれるー来たるべき人文知のためのプログラム(大風呂敷)」 (読書猿Classic: between / beyond readers))。これね、いろんな人に「まるで(本の)宣伝になっていない」と言われたんですけど(笑)

ともあれ、イソクラテスの流れは途絶えたか、と言えば、全然そんなことはなくて、むしろ、西洋文明を貫く大きな流れになっていると僕は思います。イソクラテスの学校をモデルにして、共和制ローマ(紀元前509〜)には弁論術(=レトリック)の学校がたくさんできた。そこでいろんな人が弁論術を学んでいくという流れができた。これ、イソクラテスがモデルなんですよ。こういう学校で「実践知はどうやって身につくの?」という話が出てくる。ギリシャ語で言うとアレテー(ἀρετή)、訳すと「徳」ですね、徳がないと政治に従事できない、と。貴族には徳が生まれつきあるんだとされていたのをイソクラテスは「徳は教えられる」と言った。これはソクラテスの流れも汲んでいます。それで、彼はその教え方をおれは知っていると言うわけ。もうほとんど、ソフィストに近いようなところもあるんですけど、その方法が何かと言うと弁論術なんですよ。要は言語教育というか、弁論の教育・訓練を行うことで実践的な「知」が鍛えられるんだ、と言った。人というのは「知」を鍛えることで、徳の高い存在になれるんだ、と。生まれや育ちは関係なく、徳を身につけて、政治をやれるんだ、とこう言ったわけです。

そこで、僕が採用している教養の定義が出てくる。教養っていうのは、「生まれ育ちから自分を解放すること」だと。これはイソクラテスの教育理念そのものなんです。そのための弁論、言葉のトレーニングだ、と。で、弁論術はその後、ギリシャやローマの共和制がなくなると、徐々に衰退していくんですけど、他方では、いろんなところに拡散して、ヨーロッパ中に流れ込んでいく。どんなふうに拡散しつつ継承されてきたかっていう歴史が『ヨーロッパ文学とラテン中世』には書いてある。たとえば政治の場から弁論がなくなっても、『変身物語』(オウィディウス、翻訳=中村善也、岩波文庫、上・下、1981)なんかを通じて、文学的なレトリック、表現方法に受け継がれる流れがある。あと、言語技術として、権利関係についての古文献を読んだり、鑑定したりという、書き言葉の運用技術にも引き継がれる。実際、サルターティ*44やブルーニ*45のようなルネサンスの人文学者たちは、同時に官吏や秘書官だったりする。人文学は、そもそも実践知の系譜から出てるんです 

ヨーロッパ文学とラテン中世

ヨーロッパ文学とラテン中世

  • 作者: E.R.クルツィウス,Ernst Robert Curtius,南大路振一,中村善也,岸本通夫
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 1971/12/01
  • メディア: 単行本
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変身物語 全2巻セット (岩波文庫)

変身物語 全2巻セット (岩波文庫)

 

少し時間を戻して、共和制ローマだと、キケロ*46なんかは、彼自身も哲学者であり、政治家で、大弁論家なわけです。名家出身でもなければ、大した後ろ盾もなく、その「知」の力で政治の世界で高い地位まで上り詰めた。イソクラテスが言った通りです。で、彼は弁論=実践知のイソクラテスの流れを汲んでいて、かつ、プラトン以来の哲学、厳密知も学びながら、もう一度、この2つを合体させられないかと思っていた。どこまでうまくいったかはアレですけど……。僕がその辺りのことを最初に知ったのは、『思想のドラマトゥルギー』(著者=林達夫・久野収、平凡社、1993)という本です。あの本は、日本人にとってはすごく早い時期にレトリックの重要性を言っていて*47、「なんできみたちはキケロを読まないんだ」と林達夫は言っていた。「だって、翻訳ないやん!」と僕は思ってたんですが(笑)

思想のドラマトゥルギー (平凡社ライブラリー)

思想のドラマトゥルギー (平凡社ライブラリー)

 

Dain あれ? キケロの翻訳ってなかったの?

読書猿 (一部、あるにはあったけど)ほとんど、なかったんですよ、当時は*48

世界の名著 (14) キケロ エピクテトス マルクス・アウレリウス (中公バックス)

世界の名著 (14) キケロ エピクテトス マルクス・アウレリウス (中公バックス)

 

『思想のドラマトゥルギー』という本は、もともと、林達夫著作集(平凡社、1971)の付録である久野収との対談を膨らましたものです。著作集にもちょっとだけその対談が付いてるんですけど、ホントはもっとたくさん喋っていた(笑)。それを本にしたらこうなった、と。その対談で、林達夫自身は言っていないんですけど……、実際、日本の哲学とか学問はドイツから輸入していたところが大きいんですよね。それでね、そのドイツでは、キケロを“殺しにかかっている”んですよ。

林達夫著作集(全7巻セット)

林達夫著作集(全7巻セット)

 

 Dain ハッハッハッハッ(笑)。マジか(笑)

読書猿 おれたち(ドイツ)にはルネッサンスがなかった。だから、ドイツが新しいヒューマニズム、新人文主義(Neuhumanismus)*49を起こすためには、ローマをすっ飛ばして、より古いギリシャにダイレクトに接続しよう、と*50。その中で古代ギリシャが本源で、ローマはその亜流みたいな話になった。それが、折衷主義的で哲学的にはいまいちだとか、ヘーゲルの哲学史におけるストア派の低い評価なんかに全部つながっている。日本はそういう流れをドイツから受け継いでいるので、ローマあたりの哲学はよく分からないし、あまり評価もしない。で、レトリックもキケロもあまり評価をしないまま、翻訳もなかったと。

Dain なんと! そういう背景があったんだ。全然知らなかった。

読書猿 白水社の文庫クセジュ(Que sais-je?)に入っている『キケロ』(ピエール・グリマル、翻訳=高田康成、白水社、1994)には、その辺の“虐殺具合”が書かれています。この辺りのことは、訳者である高田康成の解説*51が最もシンプルで分かりやすいと思います。

キケロ (文庫クセジュ)

キケロ (文庫クセジュ)

 

 面白いのは、クルツィウス(『ヨーロッパ文学とラテン中世』の著者)はドイツ人なんだということ。ポジションとしては、ゲルマニストに対するロマニスト、要はフランス文学をやっているドイツ人なんです。アルザス・ロレーヌ地方――戦争中、取ったり、取られたりしたあの場所――の出身で、ドイツが“ああいう風”になっていった中で本を書いていた人だった。『ヨーロッパ文学とラテン中世』は第二次世界大戦後に出版された本だけど、彼は戦前から書いていたわけ。当時、ドイツは国全体が狂気に陥っていて、フランスと戦ったりしていた。もうね、立場がないわけですよ、フランス文学をやっているような人間にとっては。それが戦後になってね、こういう本(『ヨーロッパ文学とラテン中世』)を出すという……。本当に悲壮な使命感があったんだと思う。もう1回、ヨーロッパというものを取り戻さなければいけないんだ! フランス文学をやっていたドイツ人であるおれが!! というね。

Dain 『ヨーロッパ文学とラテン中世』はものすごい決意の元に書かれていたんですね……。全然、知らなかった……。

読書猿 ほんとに。ヨーロッパ文学だったら、あと、ちくま学芸文庫にアウエルバッハの『ミメーシス』(E・アウエルバッハ、翻訳=篠田一士・川村二郎、筑摩書房、1994)が入っています。これもまた、すごいんですよ。本当の意味での世界文学という感じ。描写をテーマに、ホメーロスからヴァージニア・ウルフまで、ガーッとやっている。

ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈上〉 (ちくま学芸文庫)

ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈上〉 (ちくま学芸文庫)

 
ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈下〉 (ちくま学芸文庫)

ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈下〉 (ちくま学芸文庫)

 

Dain 『ミメーシス』というと僕、プラトン、アリストテレス以来の「ミメーシス(模倣)」に対応する形での「ディエゲーシス(叙述)」という風にセットで2つ本があるんかなと思っちゃうんですけど。アウエルバッハは『ミメーシス』なんですね。

読書猿 そう。この人も文献学(フィロロギー)から出てきた人で、ヴィーコ*52のドイツ語訳もやってる。ナチスが出てきて、ドイツに居ることができなくなって……、トルコにいた時に「ミメーシス」を書いてるんじゃないかな。彼は図書館を満足に使えない状況でこの本を書いているんですよ*53

Dain まじか! すごいなあ。へえ〜。

読書猿 ナチス・ドイツで、クルツィウスは立場がなかったけれど、ユダヤ人だったアウエルバッハは居場所がなかった。生き延びるために脱出して、トルコから戦後、アメリカに渡ってそこで亡くなっています。文献を通じて文化を採掘するフィロロギストが、故郷を追われ、文献からも引き離されて、流浪の学者となる。でも本来、居るはずの場所、ヨーロッパから引き離されながら、ヨーロッパを捉え直そうとしたこの仕事に、対談の前半でDainさんが挙げたサイード(彼はエルサレム出身のパレスチナ人ですね)は多くを負っていると言うんです。サイードは『ミメーシス』の英訳の序文も書いていたんじゃないかな、確か。

Dain なんか、読む本がいっぱい出てきて嬉しい……。よし、読もう!

読書猿 『ミメーシスと『ヨーロッパ文学とラテン中世』を合わせて読むと、表現や比喩が長い時間をかけてどんな風に継承されてきたかの理解につながります。「文学なんか何の役にも立たない」と言われていますが、文学って「今この場所」から離れる強力な方法ですよ。今回話してきたことからすれば、役に立たないわけがない。さっき、Dainさんが「本を読む前の話」をしたと思いますが、本を読んだ後は、悩みというか、悩み方そのものが変わっているはずなんですよ。 

Dain うん、そこだ! 悩み方が変わっている。

読書猿 「あなたのその悩みは――悩みのその内容はともかくとして――その『悩み方』は、少なくとも本を読んでいないから、そういう風になっている」。本を読めば、少なくとも「悩み方」が変わります。キャッチフレーズみたいに言うと、こうなる。

Dain それだ! キャッチフレーズとして、いいかもしれない。本を読まないという人を図書館に引き寄せるためには。悩み方を変えるために人は本を読むんだ、と。

構成:弥富文次
編集:谷古宇浩司 / 株式会社はてな
イメージ:Drop of Light/ Shutterstock.com

*1:Dain:ちなみに一覧はこれです。最初に書いたエントリーは( 最も古い『最近の若者は…』のソース」: (わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる) )です。

・『プラトン全集11巻』(岩波書店,1976)のp.604
・『ソクラテス以前哲学者断片集第III分冊』(岩波書店,1997)のp.198-199 • 『木綿以前の事』(柳田国男,岩波文庫,1952)
・『外国人物レファレンス事典』日外アソシエーツ、『西洋人名辞典』岩波書店 アーチボルド・ヘンリー・セイス(Archibald Henry Sayce,1845-1933)
・『言語学』(セース著,上田万年・金沢庄三郎訳,金港堂,1898)1942復刻版あり
・『The dawn of Civilization :Egypt and Chaldaea』(G.Maspero著,A.H.Syce編,Society for Promoting Christian Knowledge,1897,1974)
・『Introduction to the science of language』A.H.Sayce著,K.Paul,Trench,Trubner&Co.Ltd ,1900)
・『Pecords of the past:being English translations of the anciet monuments of Egypt and western Asia:new series』A.H.Syce編,S.Bagste,1888-1892)
・『The religion of ancient Egypt』A.H.Sayce著,T.&T. Clark,1913)
・『The Higher Criticism and the Verdict of the Monument』(A.H.Sayce著,London:Society for Promoting Christian Knowlege,1894)
・『古代エジプト文化とヒエログリフ』(ブリジット・マクダーモット著,産調出版,2005) • 『ヒエログリフを書いてみよう読んでみよう』(松本弥著,白水社,2000)
・『NHK大英博物館2』(吉村作治責任編集,日本放送協会,1990)
・『エジプト聖刻文字』(ヴィヴィアン・デイヴィス著,学芸書林,1996)
・『大英博物館古代エジプト事典』(イアン・ショー他著,原書房1997)

*2:日本十進分類法(にほんじっしんぶんるいほう、Nippon Decimal Classification:NDC)は、日本の図書館で広く使われている図書分類法である。Wikipediaより。

*3:読書猿:言い換えると、自分が抱えた関心に応えるには、複数の文献を貫通して読む必要があるということです。このトピック貫通的な読書を、『本を読む本』J・モーティマー・アドラー、V・チャールズ・ドーレン、翻訳=外山 滋比古他、講談社学術文庫、1997)の中でアドラーは「シントピカル読書」と呼んで、これができることを学士号(大学卒業)の要件にしてはどうかと提案しています。

本を読む本 (講談社学術文庫)

本を読む本 (講談社学術文庫)

  • 作者: J・モーティマー・アドラー,V・チャールズ・ドーレン,外山滋比古,槇未知子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1997/10/09
  • メディア: 文庫
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「シントピカル読書」の由来は、アドラーたちが編集した西洋名著全集であるGreat Books of the Western Worldにつけた「シントピコン」という特殊な索引にあります。読者がトピックに応じて古典を横断して結び合わせるための、この「トピックスによる索引(indexing by topics)」を構築するためにアドラーは7年の歳月をかけました。

*4:図書館に関係する技術・運営・思想などの諸要素を対象とする学問のこと。Wikipediaより。

*5:読書猿:ここで念頭に置いているのは、北米の図書館学が取り組んできた、図書館利用者の行動研究から拡大・発展したものです。参考図書:『情報行動:システム志向から利用者志向へ(ネットワーク時代の図書館情報学)(三輪眞木子、勉誠出版、2012)。人々がどんな情報ニーズを抱え、どう行動するかを調査したり、理論モデルを作ったりする、そういう研究分野ですね。元々は図書館利用者の行動を調べていたんですが、すでに来てくれている人だけを研究しても利用者拡大には結びつかないんで。それで図書館に来ない人がどうしているかを調べるようになりました。

*6:Chen, C. C., & Hernon, P. (1982). Information seeking.

*7:読書猿:レファレンスサービスが(質問に)はっきり答えないとしているものには、学校の宿題やクイズの解答、医療・健康相談、法律相談、人生相談、株価など将来の予想に関わる質問がよく挙げられます(こちらを参照)。もちろん、これらについても自分で考えるために役立ちそうな関連資料をいろいろ探し出してくれます。対談で出ている「レファレンスサービスは答えはくれないけど、助けてはくれる」はこのイメージです。一方で、「廻転鳥をどう読むか」(答:うぐいす)のように、辞書で調べればすぐに分かるようなものをクイック・レファレンスといって、こうした場合には「『難語辞書』をごらんなさい、答えがありますよ」と、もったいぶったりはしません。「この『難語辞典』によると、〈うぐいす〉と読むようですね」みたいな答え方をします。

*8:読書猿レファレンスサービスの歴史で言うと――、1930年に『リファレンスワーク』という本を出したワイヤーが、その中で「レファレンスサービスの保守理論」と名付けた考え方が、当初からレファレンスサービスの主流として長く影響力を持ち続けました。

大学図書館の場合だと教育的立場として、〈利用者=学生に教えすぎるのはよくない。彼らが自分のカで図書館を使えるように、「やり方」は教えても「答え」は教えない方がいい〉という「保守理論」は、自然で受け入れやすい考え方でした。

同様に公共図書館を「市民の大学」と捉える流れがあり、ここでも利用者に教えすぎない「保守理論」は支持されます。この背景には、いろんな問題について保証された答えを出すところまでやろうとすると、司書の力量や数も足りないという現実的な制約と「保守理論」が合致していたところがあります。「保守理論」は、レファレンスワークの可能性を追求する理念というよりも、現状を追認し、正当化する役割を果たしました。その意味で「保守」と呼ばれるべき、というわけです。

もちろん当時から、この「保守理論」に対する反対意見はありました。ワイヤーが「レファレンスサービスの中庸理論」「レファレンスサービスの自由理論」とまとめている立場です。

「中庸理論」は「やり方を教える」と「完全な情報サービス」の中間に位置する理論です。必要な文献を示したら、その後の文献の使い方や判断は利用者に委ねる、あるいは情報源を示したら、その解釈や活用には口を出さない――。それが「あるべきレファレンスサービスだ」という考え方です。

「自由理論」はさらに踏み込んだものです。

信頼できる情報を十分、かつ、直接的に提供することが図書館の目的に合致するんだ、というもの。他の「理論」との一番の違いは、研究者に対するスタンスです。他の「理論」の立場に立つと、(研究者はその道のプロで、自分で文献を探せて、図書館も使いこなせるはずだから)、図書館が支援する必要はないということになる。

「自由理論」は、そういう研究者こそ、図書館の支援を必要としており、なおかつ、図書館はそれができると考える。この実現には図書館員の実力や専門性も高めなくてはならない。実はアメリカの大学図書館でも、こうした図書館員の必要性はなかなか認められませんでした。レベルの高い司書を雇う金があったら、その分、書籍を買え、という話です。

「自由理論」はレファレンスサービスの可能性を押し広げる理想として掲げられ、司書個人の専門性の向上、組織として専門的な知識のニーズに応じる部門制などの図書館の組織改革を目指す動きと呼応していくことになります。

*9:元ネタは『天国は待ってくれる』(原題:Heaven Can Wait)。1943年製作のアメリカ映画。エルンスト・ルビッチ監督によるソフィスティケイテッド・コメディ。

*10:http://www.ala.org/news/news/pressreleases2008/September2008/ORSharris

*11:読書猿:どうも、ここ15年ぐらいで日本の図書館の登録者が4270万人(2003)→5732万人(2017)と増えてるんですね。「諸外国の公共図書館に関する調査報告書 日本の公共図書館」は『日本の図書館/統計と名簿 2003』をベースにしています(参考:公共図書館経年変化)。それで登録率が10%ちかく上がってる。ちょっとすごいことです。容易に想像がつくように、家計所得が減って、図書購入費も年々下がり続けているのが背景にあるので、手放しで喜べない話ではあるんですが。

*12:アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者。Wikipediaより。

*13:フランスで1807年に成立し、1808年1月1日から施行された商法典。ナポレオン商法典ともいう。コトバンクより。

*14:読書猿:ここ、ちょっと記憶がごっちゃになってます。フィラデルフィア図書館会社は1740年代にはフィラデルフィアの州議事堂 State Hallの西ウィングに移るんですが、1776年に13州の代表がここの広間に集まり、ジェファーソンが起草した独立宣言に署名しました。この建物は現在、独立記念堂 Independence Hall と呼ばれています。

ただ、フィラデルフィア図書館会社は、本が増えてきて手狭になったので、その前の1773年に元々、大工・左官組合の集会所として建てられたカーペンターズ・ホールの2階へ引っ越しています。実はこの建物の1階で1774年、アメリカの11植民地代表が集って第一次大陸会議が開催され、英国製品をボイコットし、輸出も止める「大陸不買同盟」などが決議され、アメリカ独立の革命運動がスタートします。

*15:読書猿:たとえば1769年の金星の太陽面通過を観測した1人、オーウェン・ビドゥルはフィラデルフィア図書館会社から望遠鏡を借りて、(観測に)挑みました。この太陽面通過の観測は、ハレー彗星で有名なエドモンド・ハレーが国際的な共同研究プロジェクトとして提案したものです。「1天文単位」の正確な値を得るため、彼は世界各地での観測を呼びかけました(1761年の太陽面通過観測に続いて実施)。ビドゥルは、1743年にフランクリンたちが設立したアメリカ哲学協会の支援を受けており、それもあってフィラデルフィア図書館会社から望遠鏡を借りることができたようです。なお、このプロジェクトにはアメリカ哲学協会も参加しています。

*16:読書猿:この流れがきっと、3Dプリンターが置かれるようなメイカースペースを公立図書館に作る動きにもつながっているんじゃないか、と。アメリカにおける公立図書館内のメイカースペースは、シラキュース大学の大学院生のリサーチペーパーをフェイエットビル図書館で採用したのが最初です。提案者の大学院生であるブリトン氏(Lauren Britton Smedley)はリサーチペーパーの中で、同大学院のランケス教授(David Lankes)のこんな言葉を引用しています。「ライブラリアンシップの目的は、知識と知識創造である。貴重な資源を費やすべきは、知識創造のツールであり、知識創造の結果ではない」(“Librarianship is not about artifacts, it is about knowledge and facilitating knowledge creation. So what should we be spending our precious resources on? Knowledge creation tools, not the results of knowledge creation.” (Dave Lankes, The Atlas of New Librarianship, p. 43)

*17:読書猿:コロニアル・カレッジと呼ばれる植民地時代の大学は、リベラル・アーツと神学が中心で、現代の僕らがイメージする大学とはちょっと違います。ハーバード大学も最初は聖職者を育成するための学校でした。そんな中、フランクリンたちが作ったフィラデルフィア・アカデミーが後にアメリカで最初にユニバーシティを名乗る大学(フィラデルフィア大学)になるんですが。

*18:アメリカ出身の動力飛行機の発明者で世界初の飛行機パイロット。Wikipediaより。

*19:Dain:スミソニアン博物館に手紙を書き、ラングレーの『Experiments in Aerodynamics』(1891)、シャヌートの『Progress in Flying Machines』(1894)、リリエンタールの『The problem of flying and Practical experiments in soaring』を送ってもらっています(参考:『飛行機物語――航空技術の歴史』(鈴木真二、ちくま学芸文庫、2012))より。

*20:読書猿:図書館から生まれた発明として他に有名なのものに、コピー機(乾式複写)があります。ゼログラフィの発明者チェスター・カールソンは、ニューヨーク公共図書館で数ヶ月間文献を調べ、光によって電導性が変化する光電導性のことを知り、乾式複写の基本的なアイデアに辿り着きます。

*21:日本のレファレンスサービスが低調であることを示す文献としては、戸田愼一らの以下の調査研究がある。

  • 戸田愼一、長澤雅男「大規模大学図書館における参考業務の実態」:昭和62年度調査、東京大学教育学部紀要 第28巻、1988、p.211-232
  • 戸田愼一、長澤雅男、海野敏「中規模大学図書館における参考業務の実態」:1988年度調査、東京大学教育学部紀要 第29巻、1989、p.121-145
  • 戸田愼一、海野敏、長澤雅男「単科大学図書館における参考業務の実態」:1989年度調査、東京大学教育学部紀要 第30巻、1990、p.329-349
  • 池谷のぞみ、海野敏、戸田愼一、長澤雅男「大学図書館におけるレファレンスサービスの実態」:1999年調査、東洋大学社会学研究所研究報告書 第26集、2000、p.1-102

*22:読書猿:実は昔「NYPLの電話リファレンスがどんな質問にも5分以内に答えてくれる理由」(読書猿)という記事を書いた時、制度を始め、何から何まで違うのに日本の図書館をディスるな、というクレームがありました。同じ時、神戸市立図書館の志智嘉九郎らの電話リファレンスの事例を教えてくれたのが書物蔵(@shomotsubugyo)さんです。「日本レファレンス史のミッシングリンク(完結篇) - 書物蔵」。

*23:広義には、「図書館発展を目標とした運動」と定義され,第二次大戦前から図書館界において展開されてきた。狭義には、1960年以降の図書館員による図書館サービス充実に向けた運動と地域住民による図書館づくりを目指した運動を指す。コトバンクより。

*24:1948年から神戸市立図書館の館長であった志智嘉九郎は、1951年にはレファレンス専用電話を設置し、電話によるレファレンスサービスを開始している。以後、同館は、日本のレファレンスサービスをリードすることとなる。1952年の日本図書館協会 公共図書館部会は、1952年度の研究集会のテーマにレファレンスワークを取り上げた。1953年には全国7ブロックでの地区研究集会を経て、同年11月に全国研究集会が神戸市立図書館で開催された。1954年、志智は前年の研究集会の内容と神戸市立図書館での実務経験をまとめ、『レファレンス』という書を刊行している。1959年には「referenceの諸問題」をテーマに再び、神戸で全国集会が開かれ、翌年、志智は神戸市立図書館の若手とともに後年『レファレンス・サービス』という書物になる原稿執筆に着手している。

*25:図書館の自由に関する宣言(抄):図書館は、基本的人権のひとつとして「知る自由」をもつ国民に、資料と施設を提供することを、もっとも重要な任務とする。この任務を果たすため、図書館は次のことを確認し実践する。

  • 第1 図書館は資料収集の自由を有する。
  • 第2 図書館は資料提供の自由を有する。
  • 第3 図書館は利用者の秘密を守る。
  • 第4 図書館はすべての検閲に反対する。

図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る。

*26:『LIFE&WRITE バイオグラフィと全作品解説』(有川浩、野性時代 vol.38、2007年1月号、角川書店)。

*27:『図書館戦争』に登場する「メディア良化法」の執行機関。正式名称、良化特務機関。法律名から「メディア良化隊」と呼ばれる。

*28:ドイツの哲学者、数学者。ライプツィヒ出身。Wikipediaより。

*29:読書猿:ライプニッツに先んじて、フランスの宰相マザランの図書館の司書となったガブリエル・ノーデという人が『図書館設立のための助言』(1627)という著作で、公共図書館論を展開してます。三十年戦争後、ドイツの図書館は衰え、代わってフランスの図書館が台頭してきます。このマザラン図書館(1643〜)は毎日一定時間、(図書館を)開放する原則で運営されました。一方、ライプニッツの図書館論は、彼が仕えたハノーファー家の領邦の中心地ゲッティンゲンで、ゲッティンゲン大学の図書館の発展に影響を与えます。この大学はのちに、神学部と医学部と法学部へ進む前の準備課程に過ぎなかった教養学部(哲学部)を充実させ、古典文献学(フィロロギー)を含むドイツの大学改革の震源地となります。

*30:読書猿:汎知学(パンソフィア)は16世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパ北部で展開した思想運動を指す言葉であり、神智(知)学(=テオソフィア、神の「知」)の対概念でもあります。中世が終わり、その世界認識の枠組みが解体する中、それを埋める形で台頭した2つの潮流が神智(知)学と汎知学でした。神智(知)学が直接、神の核心へ向かい、そこからこの世のすべてを把握認識しようとするのに対して、汎知学はまず地上の物質的存在へと向かい、ここから天上の神を類推的に認識しようとします。地上のものに向かった汎知学は、植物や樹木、動物や鳥、鉱物や岩石などからなる全自然を、読むべき「自然の書」として、すなわちすでにロゴス化された聖書に対する「書かれざる書物」として解読しようと、自然の博物誌的諸項目を収集するため、必然的に百科全書的な「知」へと向かいます。汎知学が成立した社会的背景には、汎知学者が先達と仰いだパラケルススのように、直接、民衆と接触し、その素朴な民間信仰や自家医療の実践を「知」の源泉として汲み上げる、新しい「知」の台頭がありました。ライプニッツの図書館構想にも「職人たちによる/職人たちのための知識」の共有がその背景にありました。

*31:読書猿:レファレンス協同データベースは2009年に本格事業化され、2017年2月にインターネット公開データの件数が10万件を超えてます(データ総数は約18万件)。その一方で、2011年(平成23年)度の調査なんですが、(回答があった)全国の図書館(室)3910館室のレファレンス質問を合計すると1年間で計8,462,460件にもなるんです(図書館調査研究リポートNo.14「日本の図書館におけるレファレンスサービスの課題と展望」)。レファレンス協同データベースに登録されているのは、ほんのごく一部(の選りすぐり)だとも言えるし、まだ手付かずの沃野が広がっているとも言えると思います。

*32:http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000032903

*33:http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000188753

*34:Dain:我が家で一番使っているのは、『小林カツ代のクッキングベストヘルプ』(千趣会)の12冊本なのですが、これ、書店で売ってないんですよね……。

*35:Dainゲーテの作品は(ゲーテより)過去のどんな精神的成果物を引き継いでいるのか? また、彼の作品は未来へどのように引き渡されているか? という「つながり」の中で読む必要があることに気づいたためです。このことはゲーテの作品だけを読んでも分からず、「ゲーテという存在」も含めて、知る必要があると思いました。

『ヨーロッパ文学とラテン中世』のp.17には以下のような文章があります。

ホメロスはウェルギリウスのうちに、ウェルギリウスはダンテのうちに、プルタコスとセネカはシェイクスピアのうちに、エウリピデスはラシーヌとゲーテ『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』のうちに作用している。

索引を見ると「ゲーテ」は46カ所で言及、引用されています。もちろん、ホメーロス(73)やダンテ(79)の方が多いのですが、ヨーロッパの過去を振り返る時のノード(結節点)の1つとなるのがゲーテなんだと思います。

つまり、「ヨーロッパ」を1つのドメインとするなら、ゲーテはDNSサーバなんじゃないかとw

*36:Dain:これ、「あなたの地位と人脈は《スモールトーク》が決めている」ですよね。「あなたの地位と人脈は《スモールトーク》が決めている/ダンバー『ことばの起源』応用篇」(読書猿)。このエントリーを初めて読んだ時、「スモールトーク」がピンとこなかったので、なんじゃこりゃ? と思ったのですが、今なら分かります。会社という組織の中で、上も下もよく見える立場になって、ものすごく分かります。これ、組織というか、社会の本質を言い当てていると思います。ですが、ピンと来にくいのかも。あまりにも当たり前すぎてて、名前がない(もしくは、名前が意味に届かない)。読書猿さんとお話をしているからか、「儀礼論とコミュニケーション」というワードだけで僕にはピンと来るのですが、ピンとこない人向けには、「あなたはなぜ、雑談をしなければならないのか」「雑談で出世する」みたいなキャッチコピーを考えないといけないかもw

*37:Dain:あと、国会図書館のロビーにある「真理がわれらを自由にする」(羽仁五郎)を思いだしました。学ぶとは、他の選択の存在を知るということですから。「知らない」ということは、世界を「狭いままで受け入れること」です。

*38:Dain:ここのところ、冬木糸一さんとの対談「【未読の「スゴ本」を求めて】僕たちがSFに惹かれる理由」 - (はてなニュース)にもつながりますね。「なぜSFを読むのか?」→「世界の見え方をガラリと変えてしまうため」

読書猿:今回の対談の中に、Q)問題をメタに捉えることは、どうすればできるようになるか?→A)まず違う視点を知ること、みたいなやり取りがあったはず。別の箇所でDainさんが挙げておられた料理本の「ちがう味を知る」とも呼応します。

*39:ニーバーの祈り(ニーバーのいのり、英語: Serenity Prayer)は、アメリカの神学者ラインホルド・ニーバー(1892–1971年)が作者であるとされる。当初は無題だった祈りの言葉の通称のこと。serenityの日本語の訳語から「平静の祈り」「静穏の祈り」とも呼称される。この祈りは、アルコール依存症克服のための組織「アルコホーリクス・アノニマス」や、薬物依存症や神経症の克服を支援する12ステップのプログラムによって採用され、広く知られるようになった。Wikipediaより。」

*40:参考:『論証のレトリック 古代ギリシアの言論の技術』(浅野楢英、ちくま学芸文庫、1996)

*41:古代ギリシアの修辞学者で、アッティカ十大雄弁家の1人。イソクラテスは当時のギリシアで最も影響力のある修辞学者で、その授業や著作を通して修辞学と教育に多大な貢献をしたと考えられている。Wikipediaより。

*42:読書猿:ピロソペインの文献上の初出とされるのは、ヘロドトス『歴史』(1巻30節)で、ギリシアの賢者ソロン(前7世紀後半~前6世紀前半)について述べたところです。そこでソロンは、「多くの国々を“知を愛し求めつつ”旅行し視察し遍歴した」といわれています。また歴史家トゥキュディデス『戦史』(2巻40節)に、アテナイの覇権を実現した政治家ペリクレスもまた、ピロソペインすることを怠らなかった人物である、とあります。

*43:読書猿:この2つの志向は、理想の政体を求めるプラトン(『国家』『法律』いずれも岩波文庫)と、政治はいつも暫定的な結論しか出せないのだから言葉を使って論じ合うことを続けるしかない(「デモニコスに与う」「ニコクレスに与う」『イソクラテス弁論集1』京都大学学術出版会、収録)とするイソクラテスの違いにも繋がります。

*44:ルネサンス期イタリアの政治家、人文主義者(ヒューマニスト)。Wikipediaより。

*45:レオナルド・ブルーニ(1370年~1444年3月9日)は、イタリアの人文主義者であり、政治家、そして、最初の近代的な歴史家と呼ばれた知識人。

*46:共和政ローマ末期の政治家、文筆家、哲学者。Wikipediaより。

*47:読書猿:「西洋思想史におけるレトリック」(平凡社ライブラリー版だと、p.426〜)のところです。この中で林は、ギリシャ語のロゴスをキケロが2つのラテン語に訳し分けていることに注意しています。哲学者としてのキケロはロゴスをラティオ(ratio:reason=理性、rational=合理的の語源)に、弁論家としてのキケロは、ロゴスをオラーチオ(oratio:oration=演説、orator=雄弁家の語源)に訳すのだけれど、この厳密知と実践知に分離したロゴスを再び結び合わせることがキケロの課題であり、ルネサンスの人文学者の課題であったとまとめています。そして、また、おそらくはフィロロギスト(ロゴスを愛好する者)であろうとする我々の課題でもあるかと。

*48:読書猿:1997年に岩波書店で『キケロ全集』の出版が予告されるまで(後に1999年から『選集』に変更し、刊行)、岩波文庫『老年について』『友情について』などがいくつかあるだけで、キケロの弁論術関連の邦訳はなかったんです。

*49:読書猿:新人文主義の学問サイドでの対応が「ドイツの古典文献学」(フィロロギー)です。特にプロイセンの新人文主義者たちによって取り組まれました。実証的かつ有機体的な理解を通じて、精神科学の形成を目指す学問です。

*50:読書猿:この背景にはドイツとフランスの対抗関係があります。ドイツは古代ギリシャと親縁である一方、フランスはローマと親縁であるという考えがフランス革命以降、ドイツで広がりました(たとえば、当時のドイツは古代ギリシャのように政治的に統一されておらず、対してフランスは古代ローマのように統一されている、など)。「芸術・学問」=文化のギリシャ、「政治・経済・土木」=文明のローマといった対比もこの流れです。

*51:高田康成「キケロ学の不成立について」。『キケロ』のp.157〜179に収録されている。

*52:ジャンバッティスタ・ヴィーコ(Giambattista Vico,1668年6月23日-1744年1月23日)は、イタリアの哲学者。Wikipediaより。

*53:読書猿:『ミメーシス』の後記にアウエルバッハはこう書いています。

この研究が第二次大戦中にイスタンブールで執筆されたという事情を付け加えてもよかろう。イスタンブールには、ヨーロッパ研究のための完備した図書館は一つとしてない。国際的な交流は杜絶していた。その結果筆者は、ほとんどすべての雑誌、大半の新しい研究書、それどころか時には自分の扱うテキストの信頼しうる批評版の参照すらも断念せざるを得なかった。(中略)この書物の成立は、どうやら、大規模な図書館が存在しないという、ほかならぬその事情に負っているらしいのである。かりに、これほどにおびただしい対象について書かれた一切の文献を参照しえていたならば、筆者はおそらく執筆にとりかかることはできなかったであろう。